【ブッダの神髄を伝える】

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2021/05/22 15:27



学生時代から格闘技が大好きだった。K1やPRIDEが全盛期を迎える前からワクワクしながら見ていた。今はRIZINのおかげで格闘ブーム再燃の兆しがみえるものの、個の嗜好が細分化してしまい、K1やPRIDEほどの盛り上がりは期待できそうにない。それでも格闘技に惹かれる一番のポイントは、選手たちの「命を懸けて戦う」姿勢だ。ルールは決まっているし、グローブをつけているし、プロ選手は才能に加えて日々の鍛錬を積んでいるから、現実に試合で命を落とす危険はほとんどないと思う。だが、鍛え上げられた肉体と超人的な技術を持つ一流の選手同士が真剣に殴り合う試合を見ると、互いに肉体を捨てているなと見入ってしまう。少なくとも試合で肉体を捨てる勇気のない人間は一流の格闘家になれないだろう。

仏教を学ぶようになって、「出家」の覚悟はもっと厳しいことを知った。出家するとは、単にモノを持たないというだけでなく、社会システムから完全に脱出することを意味する。財産も肩書も何もかも、今まで自分の命を支えてくれたすべてのものを「捨てる」。仏道とは、あらゆるものを捨てる世界だ。格闘技のプロも、命を捨てる覚悟で試合に臨むことがあるかもしれないが、あくまで財産のため、家族のため、名誉・名声を「得る」ためにやっていること。覚悟そのものは素晴らしいが、「生」の次元、「得る」世界からは一歩も出ていない。

ブッダは、悟る前に命をかけて修行に励んでいた。その心構えを次のように語っている。

この風も消えゆく。流れる川も干上がる。修行に励む私の血が干上がらぬはずがない。血が干上がり、胆汁と淡も干上がる。筋肉が溶けていく。
しかし、私の心は落ち着いている。念と智慧と禅定は、より一層、安立する。修行に励む私は、感覚を乗り越える。欲を期待しない、心の清浄を見よ。

人間の限界を乗り越えようとする断固たる決意と勇気。その昔、戦いに挑んだ戦士たちは、ターバンにムンジャという草の葉を一枚挟んだという。それは、死ぬ覚悟で戦いに臨むという誓い。戦場で死ぬことはあっても、負けて帰ることはない。ブッダも、そのような気持ちで修行に挑んだという。

私はムンジャを挟んでいる。命は惜しまない。敗北して生きるよりは、戦って死ぬ方がよい。この戦いに負ける修行者には、仙人が歩む道も、その達する目的も知りえない。
旗を上げて包囲体制を取る悪魔とその軍隊を見る私は、戦いに赴く。私の意志を変えさせてはならない。神々を含む世が勝つことのできないこの軍隊を、私は智慧で叩き潰す。
思考を自在にして、気づきを確立させて、弟子を指導して国から国へと旅する。私の教えに従う弟子たちは、怠ることなく自己を制御して、憂い悲しみのない境地に達するだろう。(スッタニパータ第3章「精励経」)

すべてを賭けて、命を捨てる覚悟で挑戦しない限りは、心の汚れをなくして解脱に達することは難しいと言われる。真の出家の覚悟とは、世間のどんな覚悟よりも厳しい、生きることそのものを捨て切る死の覚悟なのだ。



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