2021/09/05 15:49
初期仏教で「諸仏の教え」と名付けられている3つの偈には、仏道の本質がコンパクトにまとめられている。このHP冒頭にも記載されているのが第1番目の偈で、日本人にもお馴染みのもの。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という言葉で知られ、「七仏通戒偈」の一つとされている。パッと見ると「当たり前のことだな...」と思いがちだが、実はそれぞれに深い意味が込められている。
Sabba pāpassa akaraṇaṃ
一切の悪を犯さないこと
kusalassa upasampadā,
善に至ること
Sacitta pariyodapanaṃ
自らの心を清めること
etaṃ Buddhāna sāsanaṃ.
これが諸仏の教えです。
(Dhp183)
ここでは3行目の「自らの心を清めること」について。このパートを実行するには、自らの心を観察する。自らの心を正確に読み取る作業は、自分にしかできない。問題は、誰もが「私は完璧だ。善人だ」と勘違いしていること。その前提があるから、みんな自分の心を省みずに、世間に向かって「悪いことをやめなさい。善いことをしなさい」と指図する。社会正義を実現しようとする。ところが指図される側も、やはり「私は完璧だ。善人だ」と勘違いしているので、力で脅されたり、鼻先に人参をぶら下げられない限り、誰も他人の指図なんか聞かない。
自らの心を清めようとする人は、「私の心は汚れている。清める必要がある」と発見する。私の心は清めなくてはならないと理解した時点から、「私は完璧だ。善人だ」という途方もない勘違いが揺らぎ始める。私の心は汚れていると自覚し、それを清めなくてはならないと理解できるかどうかが大事な鍵になる。心を清める方法自体は、とてもシンプル。ただ自分の思考と感情の流れを観察するだけ。「この思考は善思考だ、これは悪思考だ。この感情は善感情だ、これは悪感情だ」と発見すれば十分だ。
観察の始めから、「私の心は汚れている。清めなくてはならない」と理解しているから、悪思考や悪感情を発見すると「二度と起こしたくない」という気持ちが生まれる。善思考や善感情を発見すると「さらに続けて完成させよう」という気持ちが生まれる。それだけで心は徐々に清らかになっていく。怒っているとき、苛立っているとき、落ち込んでいるとき、悩んでいるときに、その状況を観察する。原因となった事情はどうあれ、「今の精神状態は苦しみだ。安らぎがない。悩みがある」と客観的に観察する。悩み苦しみが存在する状況から脱出する方法を完成させ、常に安らかな心で過ごせるよう努める。すると次第に、わずかな怒りも、わずかな苛立ちも発見できるようになる。
自分の不完全さを認め、受け入れなさい。相手の不完全さを認め、許しなさい。
---アルフレッド・アドラー
「人間は不完全な生き物」という話は、世間でもよく言われる。しかし、不完全でも仕方ないだろう、他人を非難したり差別するのは良くないことだ、という教訓で終わる。より善い人間になりなさい、完全性を目指しなさいという上昇志向はない。道を知らないからだ。仏陀の場合は違う。仏教のモットーは、「生命は不完全だからこそ、完全性を目指す」。仏陀が語る解脱は、その境地。誰の心にもある「私は完璧だ」というとんでもない錯覚を正して、正真正銘の完璧な心を持つ人間を育てるのだ。
欲なければ 一切足り
求むるあれば 万事窮す
淡菜 餓(うえ)を療(いや)すべく
衲衣(のうい) いささか躬(み)に纏う
独り往きて 麋鹿(びろく)を伴とし
高歌して 村童に和す
耳を洗う 巌下(がんか)の水
意(こころ)に可なり 嶺上の松
---良寛
仏道の生き方とは、気づきの生き方、観察の生き方。これは特別な生き方ではない。普通に生きて、心を観察する。普通に生きて世の執着を超越し、「心は、有るとも無いともいえない。一瞬一瞬、生滅変化していく流れだ」と発見する。私が存在するという実感は幻覚にすぎず、あらゆる現象は無常・苦・無我であると発見したとき、「自らの心を清らかにする」という教えは完成する。悪の源が根絶され、すべての苦しみを乗り越えるという。