【ブッダの神髄を伝える】

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2021/09/06 12:00


人間の欲は、「いくらあっても足りない」という性質を持つ。いつでも不平不満がいっぱいある。何をやっても満足できない。なのに世間は、「豊かになるためにもっと儲けろ」「もっと経済成長しろ」と無限の経済成長を追い求める。どこまで頑張れば良いのか、どこまで経済成長すれば人類にとって十分なのか、欲望の上限について考えない。だから地球上のすべての生命が苦しんでいる。地球環境がヤバいことになって、ようやくSDGsだ、ESG投資だと掛け声をかけているが、それでも利潤追求のために人間の欲望を掻き立てることはやめられない。人々の購買意欲を刺激して、地球資源とエネルギーを浪費しながら、何とか小手先の対処療法で解決できないかと模索している。

欲の性質を理解しよう。対象は何でもいい。「○○が欲しい!」と何かについて欲望を持つときは、その何かに依存している。スマートフォンが欲しい、お洒落な服が欲しいと思うときは、それらに依存して楽しもうとしている。たとえば、有名ブランドの時計やカバンが欲しいという感情の裏には、ブランドに隠れて自分をアピールしたいという依存がある。ハイブランドの商品に人を幸せにするパワーがあるなら、安い給料で朝から晩まで働いているアジアの工場労働者たちは、大量のブランド品に囲まれて死ぬほど幸せだろう。「憧れのブランド品には、人を幸せにする力がある」という思考は、迷信以外の何ものでもない。食べる物で、着る服で、乗る車で自分をアピールしようとするのは、依存という欲の病に侵されているから。その病にかかると、高価な品物を買う道しか見えなくなる。高価なブランド品を買ったら、もっと高級で魅力的なブランドが世の中にあることに気づいて欲しくなる。手に入れないと居心地が悪くなり、買い漁るという悪循環に陥る。そうやってブランドに依存しても、「いくらあっても足りない病」からは未来永劫抜け出せない。

仏教は、スマートフォンを使ってはいけない、ブランド品を買ってはいけないという立場ではない。必要なものなら揃わないと困る。欲しいという感情に上限はないが、理性的な「必要」には上限がある。ここまで実現すれば十分というリミットがある。つまり、感情的な欲望を理性的な「必要」に入れ替えると、欲の病は軽減される。自分が幸せに生きるためには、「これぐらいで十分」という自分にとっての適量を知ろう。そろそろスマートフォンが「欲しい」と、スマートフォンが「必要だ」は、まったく意味が異なることに気づくべきだろう。欲の性質を知り尽くした仏教は、「何も欲するな、得るな」ではなく、「得るものは適量に」と教える。

人は、欲しいかどうかを判断基準にしないで、幸福に生きるために必要かどうかを基準にした方がよい。実用主義(プラグマティズム)で生きるなら、無駄なことはしなくなる。環境破壊もなくなる。精神的な悩みも少なくなる。見栄を張って生きようとして人生を失敗することもなくなる。欲に足を引っ張られて、欲に溺れてはならない。これが仏教の立場だ。

家を出て何も持たない仏陀の弟子たちは、必要最小限で満足しつつ、心を清らかにする道を歩んでいた。当時の最高の贅沢をしていた王族よりも心穏やかに、笑顔で生活していた。人々は、「乞食で食べているのに、なぜこんなに満足しているのか」「夜寝る家もないのに、宮殿に住んでいる私たちより喜びを感じているのはなぜだろう」と羨ましく思っていた。必要最小限で楽しめるのが、偉大なる人の安らぎの精神状態。不平不満のない、精神的に問題のない、心が完全に健康な人間でなければ仏教の仲間には入れない。仏道を歩む者は常に楽しみを感じる。たとえ食事がカップラーメン一つでも、「今日はもう十分食べた」と満たされる。贅沢なご馳走を食べたように満足する。仏道を歩んで心を清らかにする者は、安定した喜び、揺るぎない楽しみを感じられる。この楽しみを消すことは誰にもできない。


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