2021/09/25 17:57
自分と他人を比べる心を、仏教では「慢」(māna)という。子どもを育てるときに、常に誰かと比べて育てると、子どもは死ぬまでその態度を引きずって生きるかもしれない。「〇〇くんのように、あなたも勉強しなさい」と言われて育ったら、その子は生涯、ライバルがいないと頑張れなくなってしまうだろう。「ライバルがいると頑張れる」のは、自分と他人を比べる「慢」の心があるから。同じ「慢」の心から、「負けたくない」という闘争心、「他人より高く評価されたい」という功名心、「なんでアイツばかり評価されるんだ」という嫉妬心など、さまざまなネガティブな感情が生まれる。
他人と比べるのではなく、「自分で判断して行動しよう。これはどう見ても悪いこと。悪いことだからしない、と決めよう」と教えたら、そこに慢はない。世の中のあらゆる場所に見張りや監視役がいるのは、慢の心で動いているから。誰かと比べないと、誰かの目がないと、しっかり行動できない。会社では、上司が部下の仕事を見張っていて、機密情報を盗まないように規則で縛ったり、高度なセキュリティシステムを導入したりする。そうしないと、すぐに盗みが起きる世界になっている。
バレなければOK?
世の中は、バレなければ盗んでいいことになっている。子どもを育てるとき、「警察に捕まると良くない。学校に知られると良くない。世間から批判されると良くない」などと脅して育てるから、子どもは心の中で、世間の目を基準にして、「結局、みんなにバレなければいいんだ」と結論づける。社会をみれば、ありとあらゆる場所が監視されている。国民を管理する法律が山のように存在し、都市には無数の監視カメラや防犯カメラが設置されている。会社にも規則や手続が数え切れないほどあって、上司が目を光らせている。徹底した管理社会。誰かに管理されないと無茶苦茶な生き方をするからだ。「他人の目を気にして道徳を守りなさい」と言われて育つからだ。
仏教から見れば、慢の心が働くから他人の目を基準にする。他人の目を基準にすると、監視する人がいなければ道徳を破ってもよい、バレなければ浮気してもよい、と考えてしまう。そうではなく、誰が何と言おうと客観的に悪いことだと理解しているなら、他人の目があってもなくても、悪い行為はしなくなる。子どもを育てるときも、社員を教育するときも、「人の目を気にしなさい」「規則だから守りなさい」ではなく、「××をすると、こういう悪い結果になる。○○をすると、こういう良い結果になる」と、行為と結果を客観的な事実として教えた方がいい。行為と結果の関係を理解すれば、一人でいるときも仕事をさぼらず、いつでもどこでも「自分で責任を持って頑張ろう」ということになる。
善い行為も、他人の評価を求めれば不善に
善い行為をするときも同じ。「他人の評価」を気にしたら慢になる。慢に陥らないためには、自分の行為が良心に従っているかどうか、人の役に立つかどうか、それだけに注意する。社会貢献やボランティア活動を行うとき、「ニュースにして、宣伝してほしい」などと世間に注目されることや評価されることを求めるなら、慢という欲で善が汚れる。人を助けてあげられたら、それで十分。善行為の後で、「ちゃんと感謝してほしい」「感謝してくれないなんて酷い」と腹を立てたら、悪業を作り続けることになる。結果はトータルで大損だ。
嘘をついたり、殺生したり、他人に迷惑をかけたり、悲しみを与えること、性欲に溺れることは、悪いことだ。悪いことをすれば、まず自分自身が悩み苦しむことになる。悪行為をする人は、行為の前から悩み苦しみ、行為の瞬間にも苦しむ。その後も、思い出しては苦しむことになる。苦しみが苦しみを呼ぶのだ。たとえ悪事がバレなくても、自らの苦しみからは逃れられない。これに対して善いことは、ほんの些細なことでも、やってみれば「これは気持ちがいい」「安らぎが得られる」と実感できる。だからいつでも、「充実感があるかどうか」「自分の良心からみて正しいかどうか」、それだけを確認して行動しよう。慢のない心で行動すれば幸せになる。そのように世の中の道徳や教えが変わるなら、今とは全く違う社会が現れるはずだ。