【ブッダの神髄を伝える】

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2021/09/04 22:16


心の高度な次元に至るには、肉体への執着から離れることだ。自分と他人の肉体を可愛いと思う感情、体を美しいもの、素晴らしいもの、楽しみの源泉だと思う感情から自由になること。そのための手段として、仏教には「不浄随観」(アスバ-アヌッサティ)という冥想がある。身体を観察して、「汚い、不浄だ、不潔なものだ、それが事実だ」と納得する冥想。別に暗示をかけているわけではなく、汚くて不潔であることが事実なのだ。今、私たちは暗示をかけられている。その暗示を解く、暗示を破るための訓練。「なんと美しい、綺麗な方でしょうか」「肌がツヤツヤで、きめ細かくて」と言ったって、1年経ったらどうなるかわからない。どんなに美しくて綺麗な美男美女でも、1週間も風呂に入らなければ耐え難い悪臭を放つ。だから「肉体は不浄だ」という見方は、変な強引な教えではなく、シンプルな事実。不浄随観という冥想によって、今まであった「我こそ正しい」という、その感情まで破る。

不浄随観は、肉体の観察の解像度を高める。いわば「虫の目」の観察。もう一つ、人生を「鳥の目」で俯瞰して観察することも、大切な実践になる。それが死随観(マラナ-アヌッサティ)。人間は愚かなので、「私は年を取らない、死なない」と本気で思っている。無知な人は、死を避けようとする。不幸な出来事だと思う。日常会話で使ってはならない禁句だと決めつける。事実に背を向ける人は、事実に遭遇したときに途方に暮れる。やるべきこともできなくなる。死を認めることは、死を宣告された時では遅い。将来に色々夢を抱いて、最盛期を過ごしている時に観察すべきものだ。「すべての生命は必ず死ぬ。生まれるものは、ことごとく壊れて行く性質である。死は避けられない。水面に書いた線のように、命は消え去る」「命は儚い。死は確実である」と念じる。「死は確実に来るもの。それはやがて訪れるものではなく、いつでも起こり得るもの」と観察する。誰もが例外なく老いて死ぬ。事故に遭って突然死ぬこともあれば、ウイルスに負けることもある。とても脆い。

「かの死んだ身も、この生きた身の如くであった。
この生きた身も、かの死んだ身の如くなるであろう」と
自分の身体に対する欲をも、他人の身体に対する欲をも離れるべきである。
(Sn1.11)

「命は儚い。死は確実」と念じていると、この言葉に逆らおうとする心のざわめきを発見する。何となく気分が重く、暗くなっていくように感じてしまう。「誰だって死ぬだなんて、ネガティブな思考だ」と、嫌な気持ちになってしまう。死随観を実践することで、暗い、怖いという本音が炙り出される。それは自分が感情的であって、理性的でない証拠。日の出も日の入りも、何の不思議もない自然現象で、そこには喜びも悲しみもない。冷静に受け止めることができる。死という現象も、まったく同じ気持ちで受け取られる精神的な能力を育むために、死随観が勧められている。嫌な感情が出てきたら、引きずられることなく、目を背けて逃げることもなく、「これは感情だ」と気づいて見破る。


私たちは、この世界に一時滞在しているだけだと理解しよう。どこか旅行に出かけて、ホテルに泊まるようなもの。人生は一時の旅だと考えれば気楽なものだろう。この人生に永住せねば!と勘違いして意気込んだら、余計な苦労を抱え込むだけ。死随観を実践する人にとって、死は自然な現象に変わる。何も驚く必要はない。死という現実を見抜いた人だけが、安楽に生きられる。ポイントは、心の中から自発的に意欲が生まれること。高度な生き方に進もうという志が、自分の中から生まれることだ。誰かに強制されて実践するのではない。義務感で実践するのでもない。自ら工夫を重ねて、高度な生き方へと進もう。肉体の観察の解像度を高め、人生を俯瞰して観察する行為は、自らの意志で高度な生き方へ進む助けになってくれる。


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