【ブッダの神髄を伝える】

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2021/10/10 18:17


仏陀は「社会から逃げなさい」「森に隠れなさい」とは一言も述べていない。仏陀の教えは、周囲の生命との調和を実現する。周囲の生命と調和していないなら、仏道は実践できていない。人間は無知がデフォルトなので、日々の生活を罪にしてしまい、苦しみの結果を得ている。希望するのは幸福なのに、人は幸福に達する方法を知らない。

しかし、ほんの少し智慧を働かせるだけで、ごく普通の日常を、美しく明るい、ストレスのない毎日にできる。それには考え方を入れ替えて、欲・怒り・無知(貪瞋痴)の多い心から、欲・怒り・無知の少ない心に切り替えることだ。日常の幸福はすぐに得られる。仏教では「貪瞋痴で行動するとき、その行為はすべて不善だ」と教える。日常の行為を貪瞋痴で行うか、不貪不瞋不痴で行うかは、本人が決められる。

貪瞋痴の行為は不善で、不幸を招く。不貪不瞋不痴の行為は善で、幸福に至る。たとえば学校で子供たちに何か教える場合、貪瞋痴の心で教えることも、不貪不瞋不痴の心で教えることも、どちらもできる。有名になりたい、高い給料がほしい、自分の生徒を良い成績にして自慢したいといった感情で教えるなら、貪瞋痴が入るので、不善行為。子供たちに役に立つ知識を与えたい、自分が大人たちに育ててもらったようにきちんと育ててあげたい、という慈しみで教えるなら、善行為になる。

危ないことに、仏教の知識がない人の日常生活は、ほとんど不善行為だ。仏教の立場から善悪を理解している人は、日常から気をつけて行動する。どんな些細な言動でも「貪瞋痴ではダメ」と理解している。自分の子供を叱るときも「怒りの感情で叱ってはいけない。子供の未来・成長を考えて、慈しみか憐れみで叱らなければ」と気づいたうえで叱る。もちろん完璧には実行できないが、理解しているかどうかで天地の差がある。

「私は不幸だ」と感じているなら、その理由は、自分でも気づかないうちに不善行為を積み重ねてきたから。ところが人間は、自分が不善行為を積み重ねてきたことに気づいていない。強烈な自己愛があって「私は完璧だ」と思い込んでいる。「私は一生懸命に生きてきたのに、何でこんなに惨めなの」と、他人や社会に文句を言う。政治や経済が悪いと責任転嫁する。「こんな社会はクソや」と世の中を恨んで、誰かを誹謗中傷する。もっと酷いと、無差別に人を傷つける。この場合は、貪りや怒りだけでなく、現実を理解できない徹底した無知も働いている。

世界には、優れた人間も、そうでない人間もいる。生まれ、知識、財産、権力などでは、優れた人間にならない。決め手は、心の清らかさ。煩悩にまみれて汚れた心で生活する人生は卑しく、煩悩の働きを抑えた分だけ、優れた人間になる。自らを不幸だと感じる人間が政治や経済を変えるのではなく、幸福な人間こそが優れた管理者となる。幸福も不幸も、あくまで自分の生き方次第。本人の選択次第。決めるのは神様でも、政治家でもない。仏教は「人間の主人は、自分である。天国に行くか地獄に行くかを決めるのは、自分自身である」と説く。天国に行くか地獄に行くかを自ら決めるから、仏教には運命を定める神様は出てこない。私の人生ドラマの神様は、常に私自身なのだ。


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