2021/08/22 10:25
仏教は、慚(ざん、hiri)と愧(き、ottapa)という2つの法(dhamma)が世界をマネジメントしていると説く。
慚(hiri)とは、「恥を感じる気持ち」「世界が評価しないこと、常識を破る悪行為に恥を感じること」
愧(ottapa)とは、「危険から身を守る気持ち」
慚と愧がなければ、世界から秩序と人間関係における道徳規範が消えて、親兄弟などの区別もなくなってしまう。
Ime ce, bhikkhave, dve sukkā dhammā lokaṃ na pāleyyuṃ,
nayidha paññāyetha mātāti vā mātucchāti vā mātulānīti vā ācariyabhariyāti vā garūnaṃ dārāti vā.
この二つの善法が世を管理しないならば、母、母の姉妹、叔父の妻、師匠の妻、目上の人の娘などの区別がなくなります。
人間関係における最悪の道徳違反の一つは、”乱れた性行為”である。「母、母の姉妹、叔父の妻、師匠の妻、目上の人の娘」といった女性との性行為は、インド文化の道徳観でも、とてつもない悪行為・汚らわしい罪とされていた。もし慚愧が消えたら、これらの区別もなくなってしまう。
Sambhedaṃ loko agamissa
yathā ajeḷakā kukkuṭasūkarā soṇasiṅgālā.
世は、羊・山羊、鶏・豚、犬・狐のように交わることになります。
人間と獣に何か違いがあるとすれば、それは慚と愧の2つだ。仏陀は、「人間社会から慚と愧が消えたら、人間と獣の差がなくなってしまうのだ」と強調する。動物も人間も、本能のレベルでは差はなく、どちらにも「存在欲と恐怖感」が根底に流れている。しかし、人間の心には慚と愧が働いているため、動物的本能が抑えられて、人間らしい洗練された文化や社会が現れる。だから仏陀は、「慚と愧が消えたら、人間社会は獣のような社会になる」と説く。
Yasmā ca kho, bhikkhave, ime dve sukkā dhammā lokaṃ pālenti
tasmā paññāyati mātāti vā mātucchāti vā mātulānīti vā
ācariyabhariyāti vā garūnaṃ dārāti vā"ti
この二つの善法が世を管理しているからこそ、この世に母、母の姉妹、叔父の妻、師匠の妻、目上の人の娘などの区別があるのです。
心に慚愧の働きがあるからこそ、私たちは「母、母の姉妹、、、」といった人々を尊敬し、余計なことをしないよう心掛ける。自己管理する。「隣人の妻を欲するなかれ」などの戒律は神が定めたものだというなら、神を信じない人は戒律を破って何が悪いと開き直るだろう。しかし、「行為には結果がある」という現実を認めて、心に慚愧が働くなら、淫らな行為をせずに自分の身を守り、他人の身も守ってあげられる。セクハラ・痴漢・強姦といった破廉恥行為から自分と他人の身を守るのも、慚愧の働きだ。知識と理性と共に慚愧が働くと、自分のことを大事にして悪行為に恥を感じ、悪行為には悪い結果があると恐れを感じることになる。慚は「存在欲」の進化であり、愧は「恐怖感」の進化だ。心に慚愧があると道徳を守る。慚愧が薄くなると道徳を壊してしまう。
Yesaṃ ce hiriottappaṃ, sabbadā ca na vijjati;
Vokkantā sukkamūlā te, jātimaraṇagāmino.
人の心に慚愧がなければ、その人は幸福の泉から離れていく。
生老病死の輪廻転生を続けていく。
どんな生命も、ただ生まれて、老いて、病気になったりして、死ぬだけだ。精神的に進化することはない。この生老病死の悪循環から脱出して幸福の道を歩みたければ、慚愧という2つの善法が必要になる。道徳を無視して好き放題に生きる「太く短い」生き方への憧れが語られることがあるが、道徳を無視していい加減に無責任に生きても、得るものは何もない。自然のサイクルの中に止まる生き方には意味がない。
Yesañca hiriottappaṃ, sadā sammā upaṭṭhitā;
Virūḷhabrahmacariyā te, santo khīṇapunabbhavā"ti.
常に、正しく、慚愧が心にあるならば、その人の修行が進む。
解脱に達して安穏になります。
(KN,Itivuttaka42,Sukkadhamma sutta)
慚愧は、生命の心に生まれつき備わっているものではなく、後天的に獲得するもの。赤ん坊に慚愧は要らない。まだ罪を犯すことができないからだ。成長していく過程で、心に慚愧の気持ちが薄く入っていく。それは身を守るためだ。しかし、薄く入った程度の慚愧では、立派な人格者にはなれない。人間として成長するには、意図的に慚愧を育てる必要がある。社会の決まりや、生きるために必要な知識を学ぶとき、同時に慚愧を強くするプログラムも実行させる。思考能力を使って因果関係を理解することで、本能である存在欲と恐怖感に変化が起こり、慚愧が育つ。慚愧を無視するなら「幸せにサヨウナラ」という結果になる。慚愧を大事にするなら、精神的にどんどん進化して、苦しみを乗り越えることもできるだろう。