【ブッダの神髄を伝える】

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2021/09/23 20:22


人が善いことをする場合、二つの差が明確にある。善いことをしたとき、➊智慧が働いている場合と、➋智慧が働いていない場合の二つ。➊智慧が働いている場合とは、自分が行う善業をよく理解していること。仏教用語で「智相応」という。反対に、➋意味も考えずに善いことをする場合は、智慧が働いていない。「智不相応」という。

では人が、「善い行為には善い結果がある。善いことをすると、世間が認めてくれる」と思って善いことをしたり、「お布施すれば、何倍にもなって戻ってくる。お布施するお金がなくなるわけではない。生まれ変わるたびに功徳に恵まれるだろう」と思ってお布施する場合、智慧がある(智相応)と言えるだろうか? この場合、業のことを考えているように見える。輪廻のことも考えているように見える。しかし、智不相応なのだ。理由は、”商売”をやっているから。「輪廻転生する過程で裕福に生まれ変わりたい」という欲の気持ちが潜んでいるからだ。

善い行為をすれば、善い結果になるが、輪廻転生は続く。輪廻を脱出するためには、徳を積んで煩悩を戒めて制御しておかなくてはならない。「徳を積んで、その力により智慧ある人間となって、解脱に達したい」という気持ちなら、智相応になる。上のケースでは、輪廻を脱出するところまで業を信じることが進んでいない。欲で止まっているから、善が汚れている。お布施は善行為で間違いないが、智不相応なので、結果が弱くなる。

智相応の善行為をすると、強い善業になり、大果になる。どこかに生まれ変わったら、すごく巨大な業の人間になって、冥想しても簡単に成功する。そのためには、「輪廻転生する限り、善行為をしておかないと苦に満ちた不幸の生まれになる。善行為できる、修行できるところに転生できなくなる」と理解して善行為するべき。「善行為によって、煩悩が徐々に制御されて弱くなることで、最終的に解脱に達することができる」と理解して善行為を行うべき。あるいは、他の生命に対して慈しみを抱いて、自発的に協力してあげる目的で善行為を行うべきだ。そうすれば智相応の強い善行為になる。大果にもなる。徳を積むなら、智相応になるようにした方がもっと利口だ。

Idaṁ me puññaṁ āsavakkhayā vahaṁ hotu.
この功徳によって、我々は涅槃へと導かれんことを

仏陀へのお供え法要の最後には、必ず誓願を唱える。「涅槃」とは、一切の執着から離れた無執着の境地。その境地を目指して、涅槃に達する目的で、仏教徒は修行に励む。幸福を目指す完全たる道なので、涅槃という最終目標に向かって仏道を歩むなら、わざわざ小さな目的を立てなくても損することは全くないと説かれている。

このサイトの運営も同じことで、「売り上げ目標は○○円!」などと囚われる必要はないと思っている。もちろん各種データは参考にするが、それは「一人でも多くの人に、お釈迦さまの智慧と慈悲を届ける」というサイト開設の基本理念に沿うため。決して、売上や利益に執着するためではない。①幸福を司る業の力と、②理性的な努力、この二つによって合理的な期待は叶うというのが仏陀の教え。がむしゃらに努力するだけでは成功しないし、無欲で綺麗な心でいても、現実に仕事をしなければ成果は上がらない。清らかな心で、具体的な努力を積み重ねて、成果を上げる。しかし、生じた結果には執着しない。売れたら売れた分だけ、みんなハッピーになる。そういう微妙なバランスの上に成り立つ安穏の世界だ。


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