2021/09/22 12:42
生きるとは「眼・耳・鼻・舌・身」の5つの器官で情報を取り入れ、頭(意)で考えること。これが仏教の定義。「眼・耳・鼻・舌・身」の5つを「五根」という。私たちにとって、五根から情報が入らない状態は死を意味する。目が見えないと、耳が聞こえないと、舌で味わえないと、ものすごく不安・心配になって、ストレスが溜まる。五根からの情報に徹底的に依存しているので、情報が入らないと不安を感じ、心配になり、殺されるような恐怖を感じるのだ。
だから、人に恐怖感をつくるのはとても簡単。ものが見えないようにする、音が聞こえないようにするだけで、命を脅かすショックを与えられる。しかし、事実として、五根からの情報が遮断されたくらいで人は死なない。心の回転は、どう頑張っても止まらない。この「眼・耳・鼻・舌・身からの情報が入らなくても構わない。そんなことで死にはしない」という気持ちが、欲の世界を乗り越えて高い次元に入るために必要な心構えだ。
私たちは普段、五根からの情報に徹底的に執着して、自ら望んで欲の世界に閉じこもっている。目から物質の情報が入れば十分。耳から音が入れば十分。舌から味が入れば十分だと思って、自分の気に入る品物や、音や、味ばかり探し求めている。しかし、五根からの情報にしがみついたままでは、どんなに頑張っても超越した智慧は得られない。超越した智慧を得ることを妨げる一番目の原因は、五根から入る情報に徹底的に依存する気持ち、離れたくないという感情だ。仏教の専門用語で「kāmacchanda」という。
社会的な仕事や遊びはもういいから、何か宗教的なことに挑戦してみようと冥想する人も、心の本当の状態は、冥想を嫌がっている。宗教に興味がある人も、本音では「眼耳鼻舌身の情報は楽しいな」と思っている。「若者みたいに楽しく遊んで、楽々暮らせたらいいな」という感情がある。その感情がある限り、心は眼耳鼻舌身に束縛されたままで、現象世界を乗り越えられない。心が成長して、欲の世界が本心から嫌になったら、「目や耳から情報が入らなくても大丈夫。つまらない情報しかない。広大な宇宙の中で、ちっぽけな入れ物に小さな穴を開けて、狭い景色を見て『私は宇宙を知っている』と威張っているだけ。俗世間は狭くて、小さくて、意味のない嫌な世界だ」と智慧で納得する。その状態なら、kāmacchanda は、いくらか消えて弱くなっている。心は、欲の世界ではなく冥想の世界に向かっている。
「冥想を止めなさい」と言われたら、隠れてでも冥想する。冥想できないように、いろいろな仕事や用事を言いつけられ、夜までかかる作業を頼まれ、商売を任されて雑事をこなすことで頭が一杯になったとする。それでも寝る間を惜しんで頑張って冥想するくらい、冥想に心が向かっているなら、kāmacchandaは消えている。誰かに強引に言われなければ冥想しない程度では、残念ながら超越した智慧の世界には入れない。
無始なる過去から、私たちは渇愛の言うままに輪廻転生してきた。今も渇愛によって生かされている。変わらないと錯覚している自我意識がある。無始なる過去から慣れてきたこの生き方を、この人生で完全に絶つことは大変な精進・努力を要する仕事だ。「眼耳鼻舌身の情報に束縛された世界は、狭くて、小さくて、意味のない世界だ」と、感情ではなく智慧で理解するなら、あり得ない・無理・不可能だと見える解脱の境地を、今ここで目の当たりにできるという。