2021/08/24 08:39
私たちは、誰のために仕事しているのか? 突き詰めれば、それは「社会のため」だ。社会がマスターで、すべての人は社会の下で働く使用人。この関係が仕事の基本であり、大前提になる。会社組織では、社長がマスターで、従業員はその下で働いているように見えるが、便宜上の形式にすぎない。従業員は、たまたまその組織に属しているだけで、いくら会社のために働いても、社会のためになっていなければ仕事として成り立たない。社長だろうが、大統領だろうが、社会というマスターの下で、社会のために仕事をするという立場に変わりはない。
社会がマスターだという大前提を自覚すると、自ずと働き方は変わってくる。私たちは例外なく、「社会から必要とされる仕事」をしなくてはならない。私たち一人ひとりは、社会から与えられた役割を担っている存在。会社の経営であれ、家事や育児であれ、どんな仕事も社会というマスターから必要とされる働き。だから「私はこんな仕事がしたいのにできない」とか「こんなふうに仕事を進めたいのにうまくいかない」という不平不満はおかしい。自分の都合や希望通りに仕事を進めようとするのは単なるエゴで、自分の都合や希望とは関係なく、必要とされる役割をこなすのが仕事の原点だ。求められる役割を果たすのがこの世界の決まりであって、仕事の現場では自我など成り立たないと心得よう。
社会に必要とされる働きが仕事の本質とすると、「仕事・働く=就職」という図式は非常に狭い発想だと理解できる。「仕事がない」と嘆く人の多くは、仕事がないのではなく、「ある決まったシステムの中で働くことができない」というだけのこと。もっと言えば、「自分が働きたいように働けない」と考えているだけで、それは甘えだろう。世の中を注意深く観察すれば、どんな仕事が求められていて、自分に何ができるのかを知ることができる。「こんな会社で仕事がしたい」「給料はこのくらい欲しい」などとシステムの枠内で考えているうちはうまくいかないだろうが、大胆にその枠を取り払ってしまえば、必ず仕事は見つかる。
人間のつくったシステムなんて、いつかどこかで崩壊する。東日本大震災のように、大地震と津波に襲われたら、一瞬で変化する世界だ。人工的で一時的な社会システムに縛られるのではなく、もっと広い視野で「今、社会はどんな仕事を求めているのだろう?」「自分に何ができるのだろう?」と考えてみよう。大胆でタフな発想を身につければ、きっと新しい何かが見つかるはず。
そして、社会の使用人である私たちは、いろいろなことができる達人ではない。誰もが社会の中で、ほんの僅かな領域だけを担っている。それが事実で、それで十分。日々の学びはとても大切だが、「あれもこれも学ぼう」「何でもできるようになろう」というのは頭の悪い人の発想だ。賢い人ほど、自分の領分や守備範囲を知っている。経験を積んだ人ほど、自分が担うべき役割を自然に理解している。私たちは目の前のことを、それも僅かな領域について、一生懸命に学べばいい。自分が担っている領域を完璧にこなすために、謙虚な気持ちで日々勉強する。それがもっとも賢くて良い勉強になる。