2021/08/23 12:00
生命は、「生き続けたい」という盲目的な衝動(生存欲)で生きている。その衝動から、恐怖感と怒りが生まれる。認識する対象を敵と味方に区別し、自らの生存を脅かす相手は敵だと認識して怒りを抱く。人間は、夢やビジョンがないと力が出てこないが、夢やビジョンは、根源的な生存欲と恐怖感から生まれるものだ。勉強して専門的知識を身につけたい、仕事で実績を上げて社会に認められたいという希望を持つのは、決して悪いことではない。しかし根底にあるのは、生存欲の衝動と、死にたくないという恐怖感。みんな自分のことしか考えていない。誰よりも自分の幸せを優先して、自分を助けてくれるから、家族のことも考える。自分が幸せになってから、親のことも考えてみる。一部の人間の幸福が、多数の犠牲のうえに成り立っているのが世界の姿。生存欲と死の恐怖という、生命共通の盲目的な衝動に突き動かされているからだ。
ふだん気づいていないが、私たちの心は悪魔の住みかだ。私たちの心は、存在欲と死の恐怖、怒り、嫉妬、無知、不安、怯え、エゴなどの感情に支配されている。教えられなくても、頼まれなくても喜んでやることは、悪魔に誘惑された結果。人は生まれたときから怒る。欲張る。他人を差別する。やりやすいこと、やりたいこと、簡単にできることは、悪魔の誘惑なのだ。悪魔を退治する戦術は、苦労して学ばなくてはならない。生命は平等であると理解して生きるためには勉強がいる。怒らないように生きるためには訓練がいる。私たちの心に不法滞在している悪魔にとって居心地の悪い環境をつくり出せば、私たちは幸福になる。悪魔が心から逃げ出せば、究極の幸福を感じられる。
「生き続けたい、死にたくない」という感情は、無知から生まれる本能の基本。生命は皆、本能に流されて生きている。本能の指令に生き方を任せると、自分が何をするのか、何をすべきかわからなくなる。「生き続けたい、死にたくない」という感情がなくなっても、私たちには何の問題もないと仏陀は断言する。誰であろうと、死ぬまでしか生きていられない。自分も生きて、他人も生きられる行為をするのは、本能を抑えている人間だ。本能の奴隷になっていない人間は、「生き延びるためなら何でもやる」という残酷な行為に走らない。本能を抑えている人に対して、他の生命は敵視することをやめる。
だから仏教は、「みんなに貢献できる人間になろう」と提案する。みんな自分のことしか考えていない世界で、みんなの幸せを願う。「私は、悪魔に誘惑されやすい人間だ」と理解して、「今の私の精神状態は不満だ。もっと良い人間になろう」という夢を持つ。自らの精神状態に決して満足せず、不満を感じるのは問題ない。安きに流されやすく、すぐに怠ける自分のだらしない姿に不満を感じ、観察することで、「より良い人格を築こう」という希望と精進が生まれるからだ。
自らの心の在り方に対する不満は、希望に変えられる。心を成長させて世界に何か貢献しようという気持ちで学ぶなら、知識もよく身につく。勉強しながら「人類の役に立つ」という気持ちを入れておくと、不思議と内容をちゃんと覚えられる。世間の夢や希望は、生存欲と恐怖感だが、夢や希望なしに元気に生きるのも難しい。仏教徒は、このジレンマを解決するため、自らの精神を向上させ、世に貢献できる人間になるという夢と希望を持つ。