人の一生とは、「生まれて成長して、恋愛して結婚して、家族を作ってお世話して、気づいたら自分は老いて死ぬ」という決まったサイクルで流れる。もちろん細部に違いはあれど、大同小異、みんな大枠は同じだろう。熾烈な生存競争の世界で、生き抜くために一生懸命に戦っている。が、苦労して幾ばくか生き延びたところで、最後はすべてを捨ててこの世から去らねばならない。客観的に見れば、最終的に得るものは何もない。大変な苦労をして必死で生きてきたのに、結局何も残らない。トータルでみれば、人生は空しいということになる。
20代、30代と、その時々でやるべきことをやり、思い残すことのない人は、晩年になって「ああしておけば良かった、こうしておけば良かった」と悔んだりしないものだ。しかしだからといって、それが人生における成功といえるかというと、仏教では「何もない」「ゼロ」ということになる。価値ゼロで死にました、ということになる。理性で見ると、人生の結果は、どんなにしっかり生きた人でも無価値。プラスにはならない。正しく生きてこなかった人や、やり残したことがたくさんある人などは、マイナスしか残らない。ゼロになるのは立派な人だと言えるぐらいだ。たとえ起業して大金持ちになったり、社会的に功なり名を遂げたとしても同じで、人生は「空」。
この人生の空しさを理解した覚者は、「何のために生きているのですか?」と問われたら、「別に目的があって生きているのではなく、ただ死ぬまで待っているだけ」と答えるそうだ。実はそれこそが理想的な生き方だと仏教は説く。何のストレスも、焦りも不安もなく、老いや病気と戦う怒りの心もない。私たちの生は短く儚く、どうせ最期は皆死ぬのだから、そんなに真剣に受け止める必要はない。一日泣いたら一日の損。「短い時間しかないから、一日も損しないぞ、一瞬も苦しまないぞ」と決意して、笑って生きる。喧嘩して嫌な気持ちになっている時間がもったいない。そうやって喧嘩もせず、怒ることもせず、恨みも持たないで、明るく笑って生きることに挑戦する。
ちょっとでも恨みを持ってしまうと、死ぬまで恨みを抱えたままかもしれない。そんな人生は面白いだろうか? 何か利益があるだろうか? 何もないだろう。どんな生命にも例外なく「死」という現象があるからこそ、毎日明るく生きられる。必ず死ぬからこそ、無益なことをしなくて済む。有益で負けない人生を送るために、死を観察しよう。私も必ず死ぬのだと認めよう。死は常に、私たちのすぐそばにある。スーパーに並べられた肉や魚も「死」だ。シラスがあったら、文字どおり死体の山。毎日毎日、大変な数の「死」が日本中の至る所にある。人は、死を恐怖するがゆえに、身の周りにある死から目を背けてしまっているに過ぎない。死は不幸なものであり、忌むべきものである。そんな考えを捨てて、ほんの少し意識を変えるだけで、死はどこにでもあると気づけるはず。そうやって周りにある死を観察すればするほど、すべての生命の死亡率は100%であり、遅かれ早かれ必ず死ぬのだと納得できるようになる。生まれたからにはいずれ死ぬという自然の法則から逃れる術はないとわかる。死に怯えて、「何がなんでも長生きしたい」とあがくのは、まったく理性的でないと理解できるだろう。
死を観察して、死を当然のものとして考えられるようになるほど、心は安らかになる。すべての生命は死に行く儚い存在だと自覚するほど、今この瞬間を大切にできる。「生きる」という現象を俯瞰して、陽炎のように移ろい消えるもの、泡のようにはじけるものと観じると、燃え盛る渇愛の炎が落ち着いて、心に智慧の光が差し込むのが感じられる。智慧の光が現れる程度に応じて、周囲との関係も良い方向に変化していくだろう。そうやって日々を真摯に生きる人だけが、いざ死ぬ時も一切の後悔がない人生を送れるのだ。