【ブッダの神髄を伝える】

BLOG

2021/08/31 12:27


この世で生きている限り、私たちは、いつどんな不幸に遭遇するかわからない。世の中は、理不尽な出来事で一杯だ。一般的なアンガーマネージメントでは、怒りをなくそうとは考えない。むしろ怒ることが必要な場面もあると考える。しかし、怒ることで世界が良くなるなら、私たちは、とっくに完全な世界に生きているはず。昔も世界は不公平で、苦しみに溢れていた。今も世界は不公平で、理不尽な現象で溢れている。昔も今もこれからも、人は、嫌な出来事に対して簡単に激怒する。「目には目を」という屁理屈を持ち出して仕返しする。仕返しできない場合は相手を恨んで、精神を病んで、自分で自分を不幸のドン底に落とす。怒りや恨みを持てば、不幸や苦しみは倍増してしまう。

怒りの種火が現れたら瞬時に消すべきなのに、人は、なかなか怒りを消そうとしない。消したくても消せない。その理由は、怒りが現れた瞬間に理性がなくなるからだ。物事の筋道が見えなくなり、怒りの感情が人を抑圧する。そこから主導権を握るのは、大脳を持つ賢い人間ではなく、何一つ理解できない感情的な猿。怒りの種火が現れたということは、無知な獣が表に出て活動を開始したということ。怒りという火に油を注ぎ回り、まず、怒るのは正しい、当たり前だと結論づける。そして次から次へと相手の欠点や間違いばかりを探して妄想する。その妄想が、さらなる怒りを煽る燃料となる。怒りの炎と共に生きる人生は惨めなもの。怒りに抑圧されて、思うことも発する言葉も行動もすべて、他人も自分も破壊する方向へ進んで行く。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」
(ヨハネ 8:7)

誰でも失敗する。間違いを犯す。私たちは誰もが不完全で罪人だ。だから本来、他人の過ちを責めたり、裁いたりする権利など持ち合わせていない。「悪事をはたらいた人間には何をしてもいい。殺しても構わない」などという思考は、明らかに間違っている。もっとも大切なのは赦すこと。たとえ自分が被害を受けても、赦そうとする気持ちを手放さないこと。赦すときは「ここまでなら赦す」などと線引きせず、どこまでも赦してあげる。赦しにリミットはない。信頼できる第三者が、「そんな扱いをされたなら、怒るのも当然だ」と太鼓判を押すような事態に遭遇しても怒らない。目指すべき境地はここだ。

感情を自己管理できない人間は、怒りの種火に油を注ぐことしか知らない。人は生まれながらに怒りという感情を持っているから、怒りの火に油を注ぐ方法を、あえて学ぶ必要はない。私たちが為すべきは、日々起こる怒りを、その場その場で消していくこと。限りなく怒る世界で、怒らないことを目指すなら、偉大なる徳を積む人間になれる。もちろん実行するのは容易ではないが、それでも日々、怒らない練習に取り組めば、やがて怒りを手放せるようになる。それこそが幸福の道だと仏陀は教える。簡単に怒ってしまう本能は、理性と精進さえあれば、究極的な幸福に変えられるのだ。


BLOGトップへ
ページトップへ
Copyright © 心を育てる本屋さん. All Rights Reserved.