2021/08/31 21:52
「時間」とは何だろう。私たちは普段、「時間がある/ない」「時間に追われる」「時間との勝負」などと表現し、時間が実体として存在しているかのように考えて、時間に縛られている。仕事で遅刻・早退を繰り返す人は、社会人として失格とみなされるだろう。しかし、私たちは「時間」を直接認識しているわけではない。太陽が昇って朝になり、昼になり、やがて沈んで夜になる。認識しているのは、そういった現象の変化のみ。Aという過去の現象の記憶と、Bという目の前の現象の流れ。私たちは、AからBへと変化する現象の背後に、時間というものが存在するはずだと考えている。
冷静に観察すれば、時間という何かが、現象とは別に実体として存在しているのではないとわかる。人間の都合で、時間という物差しをつくって使っているだけだ。時間は、過去の記憶と現在の状態との比較から生まれた観念であって、妄想といってもいい。ところが私たちは、いつしか「時間は存在しない」という事実を忘れてしまった。時を計る「時計」が発明されて、妄想が可視化され、世界中の人々が同じ物差しを共有するようになると、ますます時間は実在するものだと思い込むようになった。私たちは、自らがつくり上げた妄想に縛られ、振り回されてしまっている。まさに自縄自縛。
「お金」「国家」「神」etc. 人類がつくり出した共同幻想はいろいろある。時間も同じだ。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルによれば、138億年にわたって存在してきたはずの宇宙は、今から5分前に作られたと考えても差し支えない。1億年前の化石も、現在の私たちに“1億年前の化石”として5分前に出現し、私たちの記憶も、5分前に“私の記憶”として立ち現れたと考えることはできる。客観的に1億年前という過去が実在しなくても、「1億年前が存在した」と考えることはできるというわけだ。これが1分前でも1秒前でも、仮説の本質は変わらない。極論すれば、一瞬毎に世界が創造されているとも考えられる。「お金と時間、どっちが大切?」と問われることがあるが、仏教徒からすれば、どっちも妄想の産物でしかない。どちらが大切かを問う前に、その妄想に本当に価値はあるのか?を問うべきだ。
過去を追い行くことなく
また未来を願い行くことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの
未来は未だ来ぬものゆえに
現に存在している現象を
その場その場で観察し
揺らぐことなく動じることなく
智者はそを修するが良い
今日こそ努め励むべきなり
誰が明日の死を知ろう
(日日是好日経)
「忙しい」という感情も、時間という妄想の副産物として生まれる観念だ。忙しいと感じるときは、時間という実体のなかに雑多な仕事を押し込めて、仕事の量に対して時間が足りないと妄想しているだろう。その結果、落ち着きを失って、興奮した状態、はっきり物事を理解できない状態に陥っている。忙しい人は、ものを知る能力を失っていて危険な状態にいる。仏教の言葉では「無知」。私たちが口癖にしている「忙しい」は、決してカッコいい言葉ではなく、無知という病気の兆候を示すヤバイ言葉なのだ。
同じく「怠け心」も、時間という妄想の副産物。やるべき仕事について、心のどこかで「まだ時間がある」と思っているからこそ、「明日やればいい、これは後回しにしよう」と考えてしまう。しかし、「いつか」も「そのうち」も、この世には存在しない。あるのは「今」だけ。人生は一瞬一瞬が本番で、リハーサルはなく、やり直しもできない。今という瞬間は、未来永劫、二度と訪れない。それほどシビアで貴重なもの。朝できなかったことを昼にやるとか、今日できなかったことを明日やるとかは、根本的に不可能なのだ。この事実が本当に理解できると、今に集中できるようになる。余計なことを考えず、目の前の課題を一つ一つクリアしていく。私たちにできるのは、それだけだ。