【ブッダの神髄を伝える】

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2021/09/04 13:03


パーリ語に「Brahmacariya」という言葉がある。一般には「梵行」と訳される。「brahma(梵)」の意味は「梵天の神々」、「cariya(行)」の意味は「生き方・実践」。

Brahma(梵)は「成長する、進化する」という意味の語根から派生している。なので、Brahmacariyaとは「成長する生き方」という意味になる。世間の生き方とは対照的な、聖なる生き方を表す。世間の生き方というのは、勉強して仕事して家族を養って、社会の義務を果たしながら決まりに従って生きること。社会と色んな関わりを築きつつ、その関わりが壊れないよう大事に保ち続けること。中心にあるのは、パートナーを見つけて、家族を養うことだ。人間に限らず、すべての生命は、子供をつくる性行為に徹底的に執着する。「子孫を残せ」と司令する遺伝子の奴隷だ。子孫を残したいという衝動は生命の本能であり、社会の関わりのほとんどは、その本能の司令から現れて、さまざまな生き方が派生する。だから、Brahmacariya(成長する生き方、聖なる生き方)は、本能の司令を無視して、性行為を控えることからスタートする。

勘違いしやすのは、性行為そのものは仏教の管轄外だということ。誰が、誰と、どんな性行為をしようが、仏教には関係ない。同性愛か異性愛かなんて問題にならないし、もちろんLGBTへの偏見もない。家族を作って、家族のために責任を果たす生き方は、仏教でも悪くないと考えられている。あくまで、あなたが生命として成長進化したいなら性行為は控えましょうという話。選択するのは個人の完全な自由だ。まず、邪な行為(不倫)をやめる。次に、夫婦間の性行為も必要最低限にする。さらに進んで、性別と関係なく、夫婦で兄弟のような関係を築いて仲良くする。これも仏教では梵行という。もっと進むと、家族から離れて出家する。出家ができないなら、社会とのさまざまな関わりを徐々に減らしていく。Brahmacariyaとは、世間の生き方とは対照的に、社会との関わりを減らしていく生き方でもある。

一般的には、目標を達成する過程で社会から応援してもらうこと、励ましてもらうことは何も問題ない。しかし、「生命としての成長進化」という観点から見ると、それは結局、他人に依存していることになる。仏陀が説く解脱とは、心が完全に自由な境地に達すること。仏教から見れば、私たちは本物の自由を経験したことがない。自由に生きることをモットーにしている人も、ただ自分の欲に突き動かされて行動しているだけで、真に自由な心を手に入れているわけではない。本物の自由を知らないから、自由な心の状態を学ぼうと思ってもわからない。そこで仏教は、誰もが経験している依存や束縛にフォーカスする。

「遠離」という言葉がある。遠離とは、離れること、捨てること、手放すこと。遠離を追求するということは、すべての依存から離れて、真の自由を目指して成長することだ。遠離は、自由な心を育てるための突破口になる。真に自由な心は、依存によって成り立つものではなく、依存や束縛から離れることで実現する。たとえ解脱に向かう意欲を持続させるためであっても、社会から応援を受けることは修行者にとって逆効果になる。本物の自由に至るには、自分自身で自分を励まして、奮い立たせなくてはならない。生半可で中途半端な気持ちでは、目指す結果には至らない。家族を作らない、性行為をやめるなどの行為も、実は形式にすぎない。仏道の目的に達するには、形式を守るだけでなく、精神的にもBrahmacariyaを行わなければならない。自らが経験している依存や束縛にフォーカスし、依存や束縛から離れることで、遠離の先にある本物の喜び、本物の自由を手に入れよう。


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