2021/09/01 21:53
あなたにとって宝物とは何だろう? 「愛する家族」「一生懸命に働いて得た地位や財産」「心の通う仲間・友人たち」「将来の夢や希望」「家族や友人との楽しい思い出」。人それぞれに色んな宝物がある。宝物は2種類に分けられる。物質的なものと、精神的なもの。仏陀が説く初期仏教の宝物は、もちろん後者だ。仏道を歩む仏弟子は、「7つの聖なる宝物」(satta ariya dhana)を持っている。
Saddhādhanaṃ sīladhanaṃ,
hirī ottappiyaṃ dhanaṃ;
Sutadhanañca cāgo ca,
paññā ve sattamaṃ dhanaṃ.
①確信、②道徳
③慚、④愧
⑤学ぶこと、⑥施し
⑦智慧
これが7つの宝です。
①saddhā(サッダー、信)
自分の頭で考えることを放棄して、言われたとおりに信じ込む盲信ではない。理性に基づく自信・確信(confidence)のことだ。宗教的な信仰や神格化は人を成長させず、人類の進化にも貢献しない。価値があるのは、他人の言うことを鵜呑みにせず、「本当かな?」と疑問を持って調べて、確かな根拠をもとに理性で納得する態度。「このプランなら、うまくいく」と、知識や経験に基づいて確信している状態。学ぶ過程において徐々に発展していくもの。仏教徒に限らず、誰にとっても成功の道の始まりは「確信」なのだ。
②sīla(シーラ、道徳)
良い人格を作るために努力すること。徳を積む生き方を実践すること。人格を磨くことは、目先の短期的な利益ではなく、長期的な成功をもたらす。どんな道を歩むにしても、それによって人格が良い方向に変わるかどうかを確かめながら生きるなら、一生、堂々と生きられる。
世の中のルールは、人々を支配するためのものだ。学校の校則は、教師たちにとっての便利なツール。政府がつくる法律も国民を縛るためのもので、抜け目ない政治家たちは抜け道をつくっておく。国や自治体が膨大な法律・条例・規則を定めるのは、モラルに適った生活をする人間になってほしいからではない。「問答無用で守りなさい。守らないと罰則がある」という意味の脅しだ。自発的に守るなら、道徳的な良い人間になるはずだったのに、法律になったところで、人は束縛されて道徳性も失ってしまう。嘘をつかないことは道徳だ。嘘を語るなかれと法律で定めると、罰則が入って、脅しになり、道徳性が消え、心の自由もなくなる。良い人間になるチャンスが奪われる。本物の道徳は、心の中に自然に生まれるべきもの。生きる常識であるべきだ。清らかな美しい心で生きるには、呼吸して生きているのと同じように、道徳やモラルも当たり前のことにならなくてはならない。
③④hiri(ヒリ、慚)とottappa(オッタッパ、愧)
世界を管理する二つの善法。hiriは「恥ずかしさ」。ottappaは「恐れ」。たとえば「ダラダラYouTubeを見て過ごすのは、人間として恥ずかしい。カッコ悪い。みっともない。智慧を得るために学ぶ方がカッコいい」と恥を感じて行為を選択する場合は、hiri(恥)。「ネットサーフィンばかりしていると、時間を無駄にしてバカになる。それは怖い。危ない。やはり学ばなくてはいけない」と恐れを感じて行為を選択する場合は、ottapa(恐れ)。悪い行為を感情的に恥じたり怖がるのではない。「悪い行為は恥ずかしい・怖いから、決して行わない。善い行為は、恥ずかしくない・怖くないから、断固として行う」と、理性的で決断力のある強い性格につながることが大事だ。
⑤suta(スタ、学ぶこと)
仏教は、他宗教と違って、たくさん学びなさい、広い視野を持ちなさいという世界。いろんなことを調べて、よく学ぶ。ただ生まれて大きくなるだけでは人の役に立たないし、幸せになれない。人の役に立つ知識や技術を、積極的に学ばなくてはいけない。
⑥cāga(チャーガ、施し)
自我中心的なエゴの気持ちを抑えて、他を心配して「与える」気持ちを起こすこと。「与える」気持ちは、生命の本能に備わっていない。どんな生命も「取りたい」という衝動で生きている。そこであえて「与える」行為を実践して本能と戦う。「取りたい、欲しい」という心は、暗くて重い。「与えよう」という心は、明るくて軽い。自分が持っている知識や能力も、本来、人と分かち合うべきもの。割り算だ。普通の割り算では、答えの数字は小さくなる。しかし知識や能力は違う。割り算すればするほど、自分の数字は上がっていく。自分が学んだことを他人に教えてあげると、自分の知識はさらに増えていく。人間の智慧は、割り算すると、掛け算になって増えるのだ。だから割り算の人生こそ、いい人生をつくる決め手になる。
⑦paññā(パンニャ、智慧)
すべての現象を、ありのままに見られること。感情で判断せず、理性を使って判断すること。善心で明るく幸福に生きようと努力を続けると、小さな火種のようにpaññāが現れてくる。小さな火種で満足せず、大きく育てれば期待する結果が得られる。自分の愚かさを順番に直して、智慧を育てていく。仏教は、人間が「愚者」から「賢者」になるための道。智慧の人間に成長するための道。毎日毎日、ほんのわずかでも智慧を開発して、「自分なりによくできた。今はこれぐらい智慧がある。そのぶん人生が楽になった」と、究極的な智慧が現れるまで一歩一歩前へ進んでいく。不確かな将来を目指して、今という時間を苦労しながら無益に過ごす生き方ではない。ここが他の宗教と違うところだ。
Yassa ete dhanā atthi, itthiyā purisassa vā;
Adaliddoti taṃ āhu, amoghaṃ tassa jīvitaṃ. (AN7-5)
女性であれ、男性であれ、この7つの宝があれば、その人は貧しいとはいえない。その人の生き方は、虚しいものにはなりません。
世間は、「お金」という物質的な物差しで貧しさと豊かさを区別するしかない。初期仏教は、7つの精神的な宝物があれば、その人は貧しくないと断言する。7つの宝物を持つ人が、豊かな充実した人生を送っていると力強く宣言する。