【ブッダの神髄を伝える】

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2021/10/25 20:32


怒るのは簡単で、怒らないのはとても難しい。欲張るのは簡単で、欲張らないのはとても難しい。「貪瞋痴(欲と怒りと無知)」と反対の「不貪不瞋不痴」の行為を実践するのは、一筋縄ではいかない。水に泳ぐ魚に、陸に上がって歩けというようなもの。不貪不瞋不痴を実践して人格を高めるには「精進」が必要不可欠。残念ながら、ゆるく楽に成功する魔法の呪文は見つからない。

美しい音楽が聞こえてくると、思わず聞き耳を立てるのが自然の流れ。美しい音を無視して目の前の仕事に集中するには「精進」が必要になる。自然の心のままなら、美しさに惹かれてしまう。欲の方向に流されて、心が囚われてしまう。そこで精進によって、仕事に心を集中させる。精進とは、認識する対象を自分自身で決めるために必要なエネルギーのこと。

自然の摂理に従って流れる世界で、生命に何の葛藤も生まれないなら、仏教の悟りは不要だ。生きるとは、実に大変な作業。ひどい逆境に遭って、悲しみに沈んでしまうこともある。私たちの現状は、目の奴隷、耳の奴隷、鼻の奴隷、舌の奴隷、身体の奴隷。外界からの刺激に囚われ、振り回されている。誰かに悪口を言われただけで気分が悪くなり、いつまでも悩み続ける。悩みを生み出した張本人は、悪口を言った誰かではない。悩み苦しみの生みの親は、外界から入った情報に振り回されている自分自身の心だ。苦しみは、いつでも自作自演。

「面と向かって悪口を言われて、心に怒りが現れた」。この場合、声(音)が原因で、怒りは結果になる。しかし、原因である音は無常で、その一瞬だけ。悪口も刹那の音。いかなる音も瞬間に滅していき、この世界にほんのわずかな時間しかとどまらない。音を聞く私も、瞬時の現象。心に現れた怒りの感情は永遠に続かない。誰かに悪口を言われて、聞きたくないことを聞かされて怒ったとしても、すべては、その瞬間しか存在しないもの。

私たちは、見たいものを自由意志で見ているのではない。美しいものに心を奪われ、目が離せなくなって、見ることを強いられている。そこに自由はあるか? 誰かに何か言われてカッとなり、怒りを引きずるのは、心の自然な傾向に流されているだけ。自由な選択はないだろう。

貪瞋痴に振り回されて生きるのは「怠け」だという。貪瞋痴の奴隷になる心は、自然のままに放っておけば眼前に地獄をつくる。貪瞋痴を放っておかず、怠けようとする心を蹴飛ばして、叩き上げれば幸福になれる。精進のエネルギーを育てれば育てるほど、眼耳鼻舌身意の囚われから自由になっていく。自由になって初めて、見たいものを見て、聞きたいものを聞けるだろう。人間の差は、怠けようとする心をどれだけ蹴飛ばして打ち勝ったかで決まる。怠けに打ち勝って、心の本性を壊したところで、人生は全体的に成功する。



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