【ブッダの神髄を伝える】

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2021/09/05 19:27


花を生けるとは、ただ花を挿すのではない。小宇宙を作って、大きな宇宙の相応しい場所に位置づける。小宇宙と大宇宙が調和すれば、そこに美が生まれ、作品が光り輝く。この関係性の体得が華道修行の本質だろう。「美は実体ですか」と聞かれれば、「美は実体ではない。幻だ」と答えられる。美とは作られたものであり、諸条件によって構成されたもの。仏教では、saṅkhāra(サンカーラ)という。意味は「組み立てられたもの」「形作られたもの」「構成されたもの」。美に限らず、心も物質も、すべての現象はsaṅkhāra=組み立てられたものだ。

ある晴れた日、公園に美しい花がたくさん咲き誇っている。花が好きな人は楽しくてたまらない。人生は素晴らしいとさえ感じる。しかし、明かりのない真っ暗闇の夜だと、花を見ようとしても何も見えない。見えなければ、綺麗とも美しいとも感じられない。美とは明らかに、原因と条件によって構成された一時的な現象だ。さらに「美」は、どこで生まれるのだろうかと考えると、花は花の都合によって、その形をつくっている。花はただ存在しているだけで、美しいかどうかは誰にもわからない。花を美しいと思っているのは、見る人の思考であって、「花が美しい」とは普遍的な真理の言葉ではない。美しいという主観的な思考から欲が生まれ、執着していくのだ。愚者は、「あの花が美しかったから欲しくなったのだ」と、自分勝手に欲や執着を膨らませた挙げ句に、欲しくなったことを花のせいにする。賢者は、花という存在をただ受け取って、放っておく。

世にある美しいものは、欲ではない。
人の思考(概念)が欲だ。
世にある美しいものはそのまま置いて、
賢者はそれに対する愛欲を戒める。

「私」という現象もまた、諸条件によって構成されたもの。眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの情報が適当に組み立てられたところで、「私」というsaṅkhāra(働き)が生まれてくる。そこに永遠不滅の実体はない。あるのは「私という幻覚」を生む原因と条件のみで、止まることなく変化する。科学も哲学も、教育も経済も、世界のすべては、私とは何者かが分からないから生み出されている。複雑でストレスだらけの苦しみを、文化だ、進歩だと勘違いしている。競争しよう、戦おう、儲けようという欲と怒りに突き動かされながら、酒を飲んで心の苦しみを和らげ、映画を見ては苦しみを和らげ、絵画を見ては苦しみを和らげている。人生とは所詮、割れ物のようなもの。傷だらけで、いつも修復しなければならない。なのに自我を捨てなさい、執着を捨てなさいと言われると、「生きる楽しみがなくなる、人生が味気なくなる」と嫌な気持ちになる。仏陀の話を聞くと大損するのではないかと心配する。

他者への慈しみ、優しさ、助け合いなどの善意を実践しようとすると、心は反対方向を向いてしまう。嫌になったり、苦しくなったりしたその時に、いま善いことから逃げ始めたと自覚して、忍耐、辛抱、精進の力を奮い立たせる。善行為こそ、心の一切の汚れを取り去る幸福への最短の道。幻覚の中に生きている私たちには、現実に限りのない苦しみがある。幻覚を破ってしまえば、限りのない苦しみも消えるという。幻覚が消えたところで、何も損はないだろう。


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