【ブッダの神髄を伝える】

BLOG

2021/09/02 17:27


無差別殺傷事件が起きると、マスコミはその動機を理解できないと考えて、「謎だ、不可解だ」と騒ぎ立てる。でも、本当は全然たいした理由はない。「刺したいから刺した」「殺したいから殺した」というのは、人間として別に変わったことではないのだ。人間の本音は、自分の願望さえ叶うなら、どんな残酷なことでもやってのける。人の本性とはそんなもの。歴史を紐解けば、証拠は山のように見つかる。

現代の日本では、美味しいもの、快適なもの、素敵なもの、健康に良いもの、長生きできるものを手にして生きることが推奨されている。そればかり考えていると言ってもよい。私たちは、「欲を一杯満たしながら長生きするのが正しい」と本心から思っている。無差別殺傷事件の犯人を「不可解だ」と騒ぎ立てるマスコミ関係者だって、「欲を満たしながら長生きするのは良いことだ」と思って生きている。犯人たちは、この世の価値観に忠実に従っただけなのだ。そこに「道徳」や「正しい生き方」といった考えはない。皆、「自分さえ良ければいい」「欲を満たしながら長生きできればいい」という価値観で生きている。一日のうちで、自分の幸せだけでなく、他の生命の幸せを願う時間はどれくらいあるだろう? 他の生命の幸せのために行動した時間はどれくらいあるだろう? 

生命は、一つのネットワークの中で互いに関係しあって生きている。他の協力を受けて生きているから、他への協力や貢献をやめればネットワークから弾き出されてしまう。自分の幸せにも他の生命の幸せにも繋がらない言動を「失敗」と定義すると、一日だけでも沢山の失敗を重ねているだろう。とくに「俺ってスゴい」という自意識で行動しているときは、間違いなく失敗だ。そんな生き方を続けて、死ぬときに後悔しないか? 欲と怒りと無知に支配されたままの人生で満足だろうか?

貪瞋痴の支配から逃れて高度な生き方に進むには、「今ここ」で、自らの心身を観察し、理性で判断する必要がある。少しでも油断すると、欲と怒りと無知の餌食になる。いくら気を付けても、貪瞋痴から完全に自由になるまでは失敗し続ける。だから現実的な対応は、「失敗しない」ではない。自分は無知であるという事実を知って、正直に認めて、「失敗するたびに、反省する」。これしかない。仏教では「懺悔」という。自分を責めるのではなく、他人を責めるのでもない。後悔して自分を責める行為は、怒りであって、悪行為だ。自分の失敗を認めずに他人に責任転嫁するのも、やはり悪行為。いずれも失敗の上塗りになる。

子曰く、過ちて改めざる、これを過ちという。(論語)

失敗するのは仕方がない。大事なのは、どう対処するか。懺悔とは、自らの失敗を素直に認めて、「これから気をつけよう」と明るく戒める行為だ。何か失敗したら、「申し訳ありませんでした。私が悪かったです」と謝罪して、「やはり、こういう失敗をしてはいけない。自分も他人も苦しむ。これからは気をつけて、明るくがんばろう」と自らを戒める。懺悔は、朝に夕に、日に何度でも行う。日常の習慣にしてクセにする。自分も他人も責めることなく、失敗を失敗だと確認して、「もう恥ずかしいことはしない」と強く覚悟する。心を込めて懺悔して自我を捨てる。高慢を捨てる。すると、性格がどんどん柔軟になり、生きやすくなるのを実感できる。


BLOGトップへ
ページトップへ
Copyright © 心を育てる本屋さん. All Rights Reserved.