【ブッダの神髄を伝える】

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2021/09/02 21:32


この世界は、命を脅かす条件であふれている。幸福を感じるために、食料、衣服、快適な住居、信頼できる仲間などを探し求めても、味方になる条件はホンのわずか。自動車で移動するのは便利だけど、油断すると簡単に死ぬ。会社を立ち上げても、数年後にはほとんど倒産する。好条件の仕事に就くには、熾烈な競争を勝ち抜かなければならない。生命を包む自然は命を支えてくれるが、ある日突然、猛威を奮って大災厄をもたらす。私たちの味方となる条件は少なく、周りは無数の敵に囲まれている。肉体は脆く、命は儚い。だから存在欲の裏には必ず、「死にたくない」という恐怖感がある。軍隊を持つのも、非武装のまま国家は存続できないと恐れているからだ。

「生きる」という現象は、尊い神秘的な何かではない。偉大な目的に向かっているわけでもない。無数の敵に囲まれた環境で、わずかな味方に依存して、ひたすら自分の命を守ることに汲々としているだけ。生命の心に本能として書き込まれているプログラムは、「自分の命を守りなさい」に尽きる。他を思いやって優しい言葉を使うこと、誹謗中傷しないこと、相手の人格を傷つけないことなどの戒めが難しいと感じるのは、本能に書き込まれていないからだ。生命を慈しむ瞬間は少なく、怒り、憎しみ、嫉妬や差別の感情に囚われている時間のほうが圧倒的に長い。パートナーと仲良く連れ添うのは諦めても、誰かを憎んだら負の感情が粘りついて離れない。「自分の命を守りたい」「他の生命は関係ない」というエゴイズムこそが、すべての生命の基本原理。

生命は、その基本原理にしたがって、単独でも集団でも行動する。自分の命を守るために単独行動が必要であれば単独で行動し、集団で行動しなければ危ういと感じれば、集団で行動する。コロナ禍では、自分の命を守るために集団行動が必要になった。単独か集団か?を決める基準は、「どうすれば自分の命が守られるか?」。マスクやトイレットペーパーの買い占めという単独行動が起きるのも、自分の命を守ろうという判断による。国家も同じ原理で動く。諸外国との協調が自国の利益になると判断すれば、固い友好関係を結ぶ(多国間主義:マルチラテラリズム)。協調するのは自国の損失と判断すれば、独断で行動する(単独行動主義:ユニラテラリズム)。単細胞から人間まで、個人から国家まで、すべての生命は、「自分の命を守られるか?」という基準で判断し、行動している。

ルソーは、共同体の構成員が自己利益を優先せず、理性を働かせて政治参加すれば、全体に配慮する意志(一般意志)が働いて理想社会が実現すると考えた。ルソーの思想は、現代でも理論的には通用するだろう。しかし「自己利益の追求」という生命の本能に逆らって、現実に理性を働かすことができる人間は、昔も今も少数派だ。現代倫理学は、「自己利益の追求がなぜ悪いのか」という基本的な問いにすら明快な答えを出せない。自我中心に単独行動する人間が大勢を占めると、社会は犯罪者で溢れかえる。かといって集団行動が行き過ぎれば、偏狭な国家主義(ナショナリズム)に陥って人権が制限される。人間は自らの命を守るため、単独行動と集団行動の絶妙なバランスを常に保たなくてはならない。

単独行動と集団行動の間で揺れ動く世界で、自分という人間の資質が十二分に発揮される位置に自らを置くことができれば幸せだろう。その手段として自己利益の追求という態度で臨むのは間違っている。どんな人でも、相手を喜ばせることができたとき、自分も喜びを感じている。「誰かの役に立つ」とき、周囲は喜んでくれる。みんなに感謝され、必要とされる。これが人生を楽しむ最大のコツ。「楽しい人生」を追い求めるのではなく、人生の中に楽しみを見つける。この世界で自分に関わっているすべての生命の幸せを念じ、日々精進していく過程に、真の生きる意味を見いだすことができる。


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