2021/09/17 19:31
人間は考える葦だ。考えることが正しくないなら、何をやっても正しくないことになる。成功を収めて幸福に生きたいなら、まず思考を正しくしよう。思考を正しくすれば、行動は自ずと正しくなる。何をすればよいのかと悩む前に、自分の思考を正そう。私たちが何者になるかは、何をどう思考するかによって決まる。
人間は、自然の中で最もかよわい一本の葦でしかない。しかし、それは考える葦だ。
私たちの尊厳は、ひとえに思考に存する。よく考えるように努めよう。そこに道徳の原則がある。
---パスカル
思考は自由だという意見があるが、それも「正しくない思考」だ。私たちの思考は自由ではない。ほとんどが、自らの感情や好き嫌いなどに条件づけられている。人がしているのは正しい思考ではなく、条件づけられた主観的な思考にすぎない。自分の偏見的思考をいくらでも頭の中でかき回せるので、思考は自由だと錯覚しているにすぎない。私たちは、普段慣れ親しんだ決まった思考パターンに沿って、頭の中で概念をかき回している。「思考する」と名付けているが、正しく言えば、妄想に耽っているだけだ。
人は、自分勝手に思考したり、妄想したりする。感情に汚染されて主観的に考えると、自分にも他人にも迷惑がかかることを理解しよう。たとえ理解しても、それだけでは感情を一日でコントロールするなんてできない。だから、努力して徐々に改善する。
異常な欲から離れる
異常な欲とは、病気で危険だ。ただ「美味しいご飯を食べたい」とか「バイトしてお金を稼いで、海外に行きたい」というのは常識的な欲。目的が具体的なので、頑張れば達成することもできる。欲は断じて悪いというのが仏教の立場だが、①常識的な欲と②異常な欲の2つに分ける。
常識的な欲があると、人は常識的に苦しむ。「家族を幸せにしたい」という常識的な欲がある人は、「頑張って仕事しないといけない」という常識的な苦しみを受けることになる。とはいえ常識のレベルに欲を保つのは難しい。突然、制限を破って、非常識な欲が顔を出す。異常な欲に変わってしまう。異常な欲の正体は、ズバリ妄想だ。現実と関係ない想像が元凶だ。異常な欲の妄想が起こると、心の中で制御できずに膨脹し続ける。精神的な病気にかかって、苦しみのどん底に落ちることもある。異常な欲は、人生を台無しにする危険なもの。だから人生を成功させたい人は、異常な欲の妄想を猛毒だと思って離れよう。
異常な怒りから離れる
怒りも断じて悪い、というのが仏教の立場。わずかな怒りでも、悪い結果を出す。とはいえ私たちは、しょっちゅう怒ってしまう。だから理由があって怒ったのか、訳も分からず怒ったのかと区別した方がよい。
宿題もせずにスマホに夢中の子供がいる。母親が怒る。その怒りも怒りである以上、良い結果を出さないことは法則だ。しかし、この場合はちゃんとした理由があって怒っている。怖くなった子供がスマホを置いて宿題を始めたら、優しい母親に戻って怒りが消える。理由があって怒る場合、怒りを収めるのは難しくない。ところが何回も何回も怒ると、怒りに慣れてしまう。怒ることが自分の人格になってしまう。ちゃんとした理由があって怒るだけでなく、理由がなくても怒るようになる。将来を予測して怒り、過去を思い出して怒る人間になる。怒りも思考ではなく「妄想」だ。感情でもある。いくらでも膨脹するのだ。
そこで、考えるときは異常な怒りに汚染されないよう気をつける。理由があって怒るときは、正しく状況を判断して思考すると、怒りは消える。ところが異常な怒りは、正しい状況判断ができないので収める方法が見つからない。自己破壊と他者破壊の原因になる。ただでさえ苦しい人生が、生きていられないほどの苦しみに変質する。怒りから完全に解放されることは後回しにして、まず異常な怒りが生まれないように気をつけよう。
他に害を与えたいという思考から離れる
異常な怒りがなくても、私たちは他の生命に害を与えたいという思考(害意)を持っている。「人間が食べるため、楽しみのために、魚を釣ってよい」「自国が侵略されるなら、戦争して敵国を攻撃するしかない」「害虫には、殺虫剤をかけるしかない」など、私たちは一見善良な人間のようでいて、頭の中では他に害を与えたいという気持ちが渦巻いている。この気持ちがある限り、他の生命の殺害は絶えることがない。殺虫剤から大量破壊兵器まで、ありとあらゆる殺害グッズを開発し続ける。人類の高度な思考能力と地球資源は、生命を助けるために、貧しく飢えた子供達のために使えば良いのに、他に害を与えたいという思考があるからできないのだ。害を与えたいという思考も、悩み苦しみの原因になる。害意から離れて、すべての生命を慈しむなら、その瞬間から幸福を経験できる。
さらに「生きる」という現象を観察する。たとえ個人で肉や魚を食べないことにしても、ジャガイモやキャベツを食べている。お米を食べている。それらも結局は生きているものだろう。石は食べられないし、砂は食べられない。とにかく栄養になるものは全部、もともと何らかの形で命なのだ。害意から離れようと真剣に頑張ると、他に害を与えずには生きられない、という矛盾を見いだす。「生きる」ことに必死で執着するとは、残酷な行為をして命をつなぐことだと発見する。悪行為には必ず悪果がある。この矛盾に出会った人が、「解脱を目指すべき」という意味を真に理解する。