2021/10/01 01:34
人は、誰でも苦しみをなくしたい。しかし、苦しみをなくすために選ぶ生き方によって、際限なく苦しみが増えていく。仏陀は説く。
「人々は生・老・病・死で苦しんでいる。だから、生老病死を免れようと思って、生老病死になるものばかり探し求めている。生老病死になるものとは何か? 家族、財産、使用人、鶏・豚・牛・馬・象などの家畜動物、また、権力・名誉など。これらのものを獲得することで苦しみがなくなると思っている。
しかし、生老病死で苦しんでいる人が、生老病死になるものをいくら獲得しても、生老病死を免れることはできない」
昔も今も、人間の生き方は変わらない。生きることは大変だと、何となくわかっている。しかし、そのために見出す解決策は、何千年も変わり映えせず。「伴侶や子供がいれば」「〇〇で一番になれたら」「土地・家・金銀宝石があったら」「権力や名声を得られたら」などと、相も変わらず夢見ている。苦しみが消えると信じている。原始人の幸福論も、現代人の幸福論も、たいして変わりがない。
確かに現代は、物質的には発展した。昔の竪穴式住居より、現代の建築のほうが豪華で立派だ。昔の人々には想像できない莫大な富を、現代人は手に入れた。それでも、今の方が幸せとは言い切れない。昔も地震が起きると家は潰れたが、葉っぱの屋根に土壁の家は、いとも簡単に復興できた。現代では、震災から復興するのは並大抵の仕事ではない。世界は発展したと喜ぶのはいいけれど、苦しみも耐えがたいほど増えたのだと理解しよう。安い自転車が壊れたり、盗られたりすることと、数千万円で買った高級車が壊れたり、盗られたりすることを比較すれば、簡単にわかる。価値あるものを手にすればするほど、価値と共に苦しみも増えるのだ。
財産が欲しい、長生きしたい、年老いたくないという気持ちは、昔も今も変わらない。しかし、無我夢中で追い求める前に、人間の変わらぬ希望をまとめてみたらどうだろう。まとめてみると、「生き続けたい」という感情に集約されると発見するはず。生き続けたいからこそ、生きることの邪魔になるものを避けたくなる。「老い」は、生きることの邪魔。「病」は、生きることの障害。「死」は、生きることの逆の現象。「家族や財産の喪失」は、生きることを妨げる。つまり人間は、生きることの障害や妨害になるものを避けるのに必死なのだ。
ということは、「生きる」ことには極上の価値があるはずだ。その価値を発見している? 生きるとはどういうことか研究している? 「尊い命、かけがえのない命」などの人気のフレーズには、何か証拠がある? 何もない。単なる希望だ。「生きることは尊くあってほしい」という願いだ。証明されていないテーゼを後生大事に守っているのだ。何としても生き続けたいと努力するなら、生きることは有り難いことだと、まず証明するべき。なのに人間は、何の研究も、何の分析もせず、「間違いない。生きることは尊いはず」と信じ込んでいる。
仏陀は発見した。私たちは、苦をなくしたいと思って、苦を続ける道を自ら選択している。苦が続く道は、無知な人が選ぶ道。なぜ矛盾する道を選んでいる? 「生きるとは何か」と発見していないからだ。生の真実を発見せず、生きることは尊いと思い込んで、証拠がないのに「人生は素晴らしい」と執着している。でも、みんなが同じ感情を持っているからといって、正しいとは言えない。理性がないと、騙される。理性がないと、真理を発見するチャンスを逃す。理性を育てないと、人は成長せず、ただ生きて、老いて、死ぬだけで終わるのだ。