【ブッダの神髄を伝える】

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2021/08/27 10:59


美味しいものを食べる、カッコいい音楽を聴く、派手にオシャレする、異性と付き合うetc. それらの遊びには、誰もが楽しみを感じる。スポーツで競争したり、勝負したり、危険な行為に挑戦して刺激を受けることにも喜びを感じる。オリンピックで世界の一流アスリートが躍動する姿を見て熱狂する。刺激がないと人生は退屈だ。だから「遊びと戦い」は、人類の本能的な衝動になっている。誰もが刺激の中毒になり、刺激に依存している。

落語とは、人間の業の肯定である
---立川談志

世間は言う。「1000万円の貯金があれば充分という人より、長者番付に載る人の方が幸せに違いない」、「一回だけの海外旅行は、たいしたことない。毎年、何回でも海外旅行できる方が幸せだ」と。これらの意見が意味するのは「刺激三昧なら幸福に生きられる」「渇愛はあった方がよい」ということ。「渇愛があればあるほど、生きることに挑戦できる」というのが世間の立場。生老病死を続けることに挑戦して、生老病死を避けられると思っている。世間の人々は、この矛盾に気がつかない。

「渇愛は苦しみの原因である」というのが仏陀の言葉。私たちは、たとえわずかでも、一時的にでも渇愛を減らすことで安らぎを経験できる。だから、もし渇愛から完全に心を解放できたら、究極の安らぎに至るのではないかーーーーそう推測できる。これは根拠のない信仰ではなく、理性に基づいて達せられる合理的な推測だ。「刺激三昧で幸福に生きる」というより、「落ち着きと安らぎを感じながら幸福に生きる」という方が正しい。

欲と怒りの感情の意のままになるのは、この世でもっとも簡単な行為。みんな、本音では感情に身を任せたくてたまらない。しかし、生命が本来持っている煩悩にいくら栄養を与えても、人間の精神は微塵も成長しない。人間の精神が成長するのは、忍耐と堪忍で欲と怒りの感情を乗り越えようとするときだ。仏教は、心が嫌がることを百も承知のうえで、苦しみを乗り越えたければ煩悩の炎を消すしかないと教える。形式的な儀式儀礼や厳格な戒律で煩悩を抑えつけるのではない。仏道を実践して智慧を開発していくと、妄想や幻覚に執着する愚かさが見えてくる。智慧が現れるほど、煩悩の炎は自然に弱まっていく。

たとえば日本の葬式では、遺体をドライアイスで腐らないようにして、全身に白装束を着せ、化粧して、綺麗な棺桶に入れて美しく見せる。遺影も、故人を立派に見せるため加工した写真を使い、装飾する。遺体は悪臭を放ちながら腐っていくという現実を誤魔化して、いろいろ手を加えて飾り立て、幻覚をつくり出す。その裏にあるのは、肉体への強烈な執着。仏道を実践して肉体の現実のありさまを観察すると、この世の幻覚の仕組みが見えてくる。煩悩を無理やり力で抑圧するのではなく、世界を覆う幻覚のベールを外して、智慧によって現象をありのままに観察する。現象をありのままに観察すると、心にある無知の衝動がゆっくりと、しかし着実に弱くなっていくのだ。


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