【ブッダの神髄を伝える】

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2021/09/07 16:17


私たちは、「好きなもの」があれば幸福を感じる。好きなことで生きていけるなら恵まれていると思う。好きなものを切望し、好きなもののために努力し、労苦を惜しまない。好きなことができる、好きなものがある、好きなように生きられるということは、私たちが幸福と考える生き方。理想とする生き方、恵まれていると思う生き方だ。「好き」ということの意味を、よく覚えておこう。私たちにとって生きるとは、「好き」を目指すことなのだ。

しかし、仏陀は、まったく違う次元の道を教える。生きることは無常で、苦で、空しいものだ。生きていればいるほど、空しさや苦に痛めつけられる。真の幸福は、この苦しみの循環から脱出すること。生きることは苦を維持することで、苦の原因は「好きという感情」だから、「好き」から厭い離れること、完全に自由になることが幸福だとする。つまり、世間は「好き」を甘露だといい、仏陀は猛毒だという。

肉が好きな人がステーキを食べ、お洒落が好きな人が洋服を買い、アイドルが好きな人がコンサートに行く。「それの何が悪いのですか?」と反問したくなるだろう。仏陀の答えは「別に何も悪くありません」。「では、好きなことをしていいのですか?」には、「はい、結構です」。そこで次に聞くのは、「好きなことばかりやっても構わないのですか?」。この問いには仏陀ならずとも、誰でも否と言うだろう。ここに問題が潜んでいる。好きなことができれば幸福だと人は考える。すると、好きなことだけして生活できれば人生は幸福一色になるはずだ。しかし、実際にそのような生き方は成り立たない。

好きなことだけして生きる人生には何か「問題」があると、常識人なら誰でも感づいている。しかし、「問題」とはいったい何だろうか? このポイントは、一般社会では未だ発見されていない。「何か問題があることはわかっているが、その中身はわからない」という状態だ。質問形式にすると、「好きなことばかりやって何が悪い?」となる。人は、誰かを好きになる。何かモノを好きになる。他人の思考や考え方も好きになる。自分が好きなことをやっていると、確かに楽しみを感じる。苦などは感じない。だから、好きなことに強烈に執着する。好きな対象から離れられなくなる。「依存症」になるのだ。

「依存症」は、決して人を成長させるものではない。人の能力・理性などを破壊して、人格の向上を阻害するものだ。好きなものに依存することは、人の本来の能力・幸福をむしばむ。一時の快楽に目が眩んで、快楽に足を引っ張られて、延々と続く不幸の砂漠を彷徨う結果を招くのだ。

「好きなもの」には2つの効果がある。1つは、瞬時に快楽を引き起こす。もう1つは、人の能力・幸福をむしばむ。人は「好きなもの」の表面しか見ていない。「むしばむ」という裏面が隠れていることを知った方が良い。薬物や暴力・性的偏執などは完全に悪い。音楽・旅行・絵画・社会活動などが好きな場合、結果で見れば悪いとばかりは言えないが、まったく問題がないとは言い切れない。執着すると、結局は依存症になる。周りが見えなくなる。自分のことも見えなくなる。ほどほどにやっているうちは何の問題もないが、少々やりすぎると不幸がやってくる。悪くない「好きなもの」については、「ほどほど」が大事なポイントだが、その限度がわからないのだ。「好き」という気持ちは、感情的で本能的なもの。理性により至った結論ではない。人は妄想して「好き」を養っているのだ。だから、これ以上はないという壁(限界点)が存在しない。妄想は退化の原因であり、精神的な病気になる原因でもある。

まとめると、「好きなことばかりやって何が悪い?」という質問の答えは、次のようになる。
「『好き』という感情は、二面性を持っている。表面は、快楽を与える。裏面は、人の本来の能力・幸福をむしばむ。人は妄想によって『好き』を養っているから、好きなことが何であれ、病みつきになってしまうと、好きなものに溺れると、延々と続く不幸に襲われるのだ」


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