2021/09/10 09:21
会社のボスが自我の強い人だったら、「怖い」という思いで、ボスの言うことを聞くだろう。しかし、その「怖い」をボスに表現することはできない。するとどうなるかというと、「怖い」という「怒り」が自分の中で燃えてしまう。自己破壊だ。怒りを克服するには、心の法則に関する理解が必要だ。世間の道をいく限りは、怒りの世界に終わりはなく、お互い様でキリがない。私の自我・エゴが強いなら、周りもおのずから自我・エゴが強くなる。エゴが強ければ強いほど、相手の言うことは聞けなくなる。どうしても言うことを聞かせたかったら、権力で、あるいは暴力で言うことを聞かせなければいけなくなる。
「我あり」という自我の意識は錯覚であるにもかかわらず、私たちは、その錯覚の自我を土台にして、錯覚の自我のために生きている。だから結果として、生きる道は一貫して怒りに狂ってしまう。怒りを他人に表現しようがしまいが、自分を破壊してしまう。「我あり」という自我の錯覚があると、次の結果は決まっていて、極限に怒る人生になるのだ。自我という幻覚に絡まれたら、どうしようもなくなる。車輪の中で回り続けるだけのハムスターのように、果てしなく怒りの道を歩まなくてはいけない。そのことをきちんと理解しよう。私たちは、新しい人生論をつくる必要がある。車輪の外側に、世間の次元の外に目的地を置かなくてはいけないのだ。
慈悲の冥想で、清らかな意志が強化される
車輪の外側に出る必要に気づいたら、お互い様でキリのない世界から、一歩ずつ抜け出そう。慈悲の冥想は、エゴから生まれる貪瞋痴の悪感情が機能しないよう抑えてくれる。徐々に理性が活発になって働き始めるので、ものごとを理性で判断できるようになる。慈悲の気持ちから理性で判断するものは、すべてが自分の幸福になり、周りの生命も幸福になると決まっている。慈悲の心のある人が決める目的は、見事に善になり、「この目的は善か、悪か」と迷うことなく、すぐに善の目的を決められるのだ。仏陀は、生命の心の働きを徹底的に理解し、解明して、悟りを開いた。その仏陀が一番に勧めているのが慈悲の冥想。まず、慈悲の冥想を毎日続けることから始めてみよう。確実に、清らかな意志の強化に繋がる。
面倒くさいからこそ、挑戦する価値がある
仏陀の教えを聞いて、「冥想するのは面倒だ」と思う人もいる。その「面倒くさい」「サボりたい」「怠けたい」という気持ちは、煩悩に基づく幼稚な感情。意志を強化するとは、その幼稚な感情に、理性が勝つようにすることにほかならない。私たちにとっては、煩悩が「面倒くさい」と思うことこそ、挑戦する価値がある。
煩悩に支配されている人間は、「今日からゲームをしよう」といった話にはどんどん乗る。感情が刺激されるからだ。しかし、「冥想しましょう」という、煩悩を減らす方向の行為は、もっともらしい理屈を並べてやりたがらない。それでは人間的に成長できない。「面倒くさい」と思う行為を継続する意志を育てることが大切だ。その方法の一つとして、仏陀は慈悲の冥想を勧めている。これは誰が実践しても、必ず意志が清らかになる方法だからだ。
慈悲の冥想だけは毎日行うことにして、日々のスケジュールに組み込んでしまおう。「夜寝る前に、慈悲の冥想をする」「朝起きたら、まず慈悲の冥想をする」と決めてしまおう。「慈悲の冥想だけは毎日行う」と決めて継続すれば、習慣となって定着する。そのとき意志はすでに清らかなものとなり、強化されている。とにかく慈悲の冥想を習慣にすることが、意志を正しく強化する一番手っ取り早い方法なのだ。