2021/09/15 18:34
他人の目を気にする人は多い。自分が他人からどう思われているのか、どんな風に見られているのか。そう思うと不安で仕方ないのは、その人に自信がないからだろう。仏陀は、「理性のある人に批判されないように頑張りなさい」と教える。理性のある人にどう思われるかだけに気をつけていればいい。理性のない人にどう言われようが、どう思われようが気にすることはない。
他人を無視するのではなく、かといって、気にしすぎるのでもない。人間は不完全だから、毎日学ばなければならない。自分より能力があって、頭が良くて、経験のある人から学ぼう。そういう人々の言葉は気にするべきで、そういう人々に批判されたら、真剣に受け止めよう。自分のことを心配してくれて、何とか成長させようとしてくれる親や先生、自分より能力ある目上の人の言うことは気にするべきだ。たとえばお母さんは、子供のことを心配して、不幸になってほしくないという気持ちで、あれこれ言う。お母さんに怒られないように頑張れば、その子は良い方向に成長するだろう。
しかし、周囲の人すべてが気になるというのは正しくない。世間は、理性のかたまりではない。世間に批判されても気にすることはない。世間の人からすれば、あなたはどうでもいい存在なので、無責任に言いたい放題だ。そういう意見は「あ、そう」と受け流して、好き勝手に言わせておけばいい。人間は、自分のこともハッキリ知らない。みんな自分のことさえロクに観察していないのに、どうして私以外の人が私のことをわかるというのだろう。
仏教には「有学、無学」という言葉がある。「無学」とは、悟りに達した人のこと。「学ぶことがない」という意味で、学ぶことを完了した状態。「有学」とは、完全に悟っておらず、解脱していないからまだまだ学ぶものがある状態。「悟っていないから学ぶことがある」という意味。人間は、学ぶ生き物だ。この世に生まれてから、自分1人でできたことと言えば、母親のオッパイを吸うことくらいだろう。その能力さえ遺伝子に書き込まれているものだから、自分1人でやったとは自慢できない。今まで私たちがやってきたことはすべて、他人から教わったことだ。話す言葉も、箸の持ち方も、文化、習慣、学問、技術、芸術など、思いつくものは何であろうと、他人から学んだものなのだ。
だから私たちは、日々、今よりもっとレベルの高いことを学んでいかないといけない。その場合は、物事をよく知っている人から学ぶのであって、無責任な世間や周囲の言葉に惑わされる必要はない。自分のことを心配してくれる人の言葉に、よく耳を傾けよう。きっと自分を成長させてくれるヒントが隠れている。
とはいえ、他人の目が気になる、周囲の批判に落ち込む、という悩みを抱える人は大勢いる。特に若い女性は、「他人が自分のことをどう思うか」ばかり考えて日々を過ごしている人が多い。自我意識がありすぎる人の特徴的な症状だ。その過剰な自我意識を何とかしない限り治らない。自我意識とは、「私がいる」という意識のことで、アイデンティティとも呼ばれる。「私は〇〇です」から始まって、自分自身を定義するもの。世間では、「私はこういう者で、こういうことをやっていて、将来は、こういうことをしたい」というアイデンティティをしっかり持っていることが良しとされる。しかし、自我意識がしっかりしているのは悪くないが、あまり過剰になるとエゴ(我執)になってしまい、かえって問題となる。
「自我意識はよくても、それが増長してエゴになるとダメだ」と、しっかり覚えておこう。エゴイストでは、何事もうまくいかない。「私にはこういう能力があるから、こんなことがしたい。こういう人生にしたい。そのためには、こういう仕事や勉強をしたい」という具合に、自分を客観的に見て、それを基準に人生の計画やプログラムを組み立てるのはいい。ところがエゴが前面に出ると、「私には、こんな才能があるに違いない。その才能で、こんなことをしたい。いや、きっとできるはずだ」と自分をよく見ずに決めつけてしまう。
エゴに取り憑かれると、「私は、こんなに能力がある。こんなに性格がよい。だから人に好かれるべきだ」という思い込みが頭の中に固着する。「私は一番で、私は価値ある人間だ。私は偉い」という妄想に囚われてしまう。このような思い込みからは、生産的な結果は何一つ生まれない。自我意識、つまり「私がいる」という実感が生命のすべての問題の原因なのだが、エゴはそれを究極にまで推し進めた形だ。自分も社会も幸福になるために、エゴという物の怪に取り憑かれてはならない。