【ブッダの神髄を伝える】

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2021/10/03 19:00


「怒りっぽい性格をどうにかしたい」「すぐに怒ってはいけない」と思っているのに、つい怒ってしまう。誰かを怒った経験も、誰かに怒られた経験も、どちらも数知れない。

人は、いま何が起きているのか理解できないとき、あるいは、直面している状況を受け入れられないときに怒る。上司が部下に怒るのは、なぜ部下がそんなミスをするのか、理解できないから。登校拒否の子どもに向かって親が腹を立てるのは、子どもの将来を心配しているからというより、子どもの行動を受け入れられないからだ。

パソコンは、異常な操作をしたり、容量を超えるとフリーズする。私たちの怒りも、まさにこれと似ている。現実が自分のキャパシティ・許容範囲をオーバーすると、心の余裕がなくなって、対処の仕方がわからなくなる。だから怒る。つまり怒ってしまうのは、「誰か」や「何か」のせいではなく、怒った当人の「能力不足」のせいだ。

怒る人は、進化できない「弱者」でもある。生命の進化は、周囲の環境や状況を理解して、それに適した対応をして、初めて成し遂げられるもの。自分が置かれている状況を「理解する力」と「対応する力」がなかったら、どんな生命であれ、進化できずにやがて淘汰されるだろう。すぐに怒ってしまう人は、厳しい表現かもしれないが、環境に適応できず淘汰される生物界の弱者にほかならない。

弱者でいたくなければ、生命として進化したければ、為すべきことはたった一つ、「怒らないこと」。もちろん実行するのは容易ではない。人は、怒りの感情を持って生まれる。それでも日々、気を長くして怒らない練習に取り組めば、しだいに怒りを手放せるようになる。

それにはまず、怒ってしまったときに、「いま、私の心は容量オーバーになっている」「心の余裕が足りてない」「怒っている私は、進化できない弱者のままだ」と認識しよう。外に向かっていた目を、自分自身に向ける。それが最初のステップになる。

続いて、「いま私は怒っている」と、怒っている自分を観察する。怒りを観察できた途端、それまで燃え盛っていた怒りの炎がスーッと鎮静化するのが感じられる。怒っている自分を観察しながら怒れる人はいないからだ。「怒るたびに、自分に目を向けて客観的に見る」という練習を、倦まず弛まず、コツコツ繰り返していると、怒りをコントロールできるようになる。

信頼できる第三者に、自分の怒りは正当かどうか尋ねてみるのもいい。中立的な立場にいて、真面目で穏やかで、信頼の厚い人に、「私が怒ったのは、客観的に見て正当だと思う?」と聞いてみる。「それは怒るのも無理ないね」「そんなに怒るほどでもないんじゃない?」というジャッジに耳を傾けるうち、「ついカッとしてしまう」という感情の発作は改善されるはず。

怒らない練習の最終段階は、怒るという行為そのものの放棄だ。怒る原因がないときに冷静でいるのは、誰にでもできる。そうではなく、たとえ信頼できる第三者が「そんな扱いをされたら怒るのも当然だね」と太鼓判を押すような事態に遭遇しても、怒らない。目指すべき境地はここ。

相手が本当に悪くて、悪人としか言いようのない場合でも、怒るなかれ、敵意を抱くなかれというのが仏教の答え。相手は無知で、愚かな行為を繰り返している。この世で苦しみ、亡くなってからも不幸になるだろう。助けたくても助けられない。可哀想だ…と慈しみの気持ちを持つべきだ。

難しいのは重々承知のうえ。しかし、目指す価値は十二分にある。怒って一番損するのは、怒られた相手ではなく、怒っているあなた自身だ。怒りは、あなたの心を壊す。幸福を遠ざける。完全な悪人に対してでも、怒りで攻撃すると、余計な罪を犯して不幸になる「愚か者」になる。いかなる場合でも、怒る人は愚か者であり、人生の敗者。その事実を心に刻んでおこう。闇は、闇では破れない。闇は、光によってのみ破られる。


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