2021/10/07 21:46
仏教の最高の修行は「忍耐」とされる。勘違いしやすいが、嫌なことを我慢するのではない。嫌なことを我慢するのは「怒り」であって、忍耐ではない。「本当はやりたくない。それでもやっている」のが我慢。やりたくないことを無理にやると、怒りを育てることになるので、心が汚れてしまう。
忍耐とは、怒らないことだ。親が何かしようとしている時に、小さな子供が来て邪魔したとする。イライラして「ジャマしないで!」と言うのは怒り。嫌な気持ちを我慢するのも怒り。「勝手に遊んで」という感じで、子供が何をしても冷静にいて、落ち着いて自分の仕事をする。子供のやんちゃぶりを何とも思わず、自分は仕事に集中する…それが忍耐。
忍耐は、精神力を作ってくれる。ストレスにはならない。しかし我慢は、ストレスになる。好ましくない対象に怒りがあると「我慢」で、怒らないことが「忍耐」だ。
忍耐するべきか、避けるべきか、どっちがいいか迷う時がある。付きあいたくない人と考え方を変えてうまく付きあっていくべきか、避けるのがいいか迷ったりする。嫌だなと思う相手には、➊忍耐する、➋攻撃する、➌避けるという3つの態度がとれる。やり方さえ正しければ、どれでもいい。大事なのは、自分の心の態度。怒りが、いらだちが、嫌な気分がない、明るい状態で対応できることが仏道の核心だ。
➊忍耐する場合
まずは「➊忍耐する場合」を考える。相手の性格や生き方が、自分にとって迷惑で邪魔なとき、次のように理解してはどうだろう。「相手にも、相手の性格で生きる権利がある。ただ私の性格に合わないからと思ってとやかく言うのは、私がわがままで、相手の権利を奪って邪魔することになる。相手は相手のやり方で生きている。私は、それを邪魔だと思わず、淡々と私のやり方で生きてみよう。お互い自由だ」。そう理解すると怒りは生まれないし、人間の尊厳を守る人にもなっていて、落ち着いていられる。周りが少々うるさいのに落ち着いていられることは、「忍耐」の修行になる。
➋攻撃する場合
次に「➋攻撃する場合」を考えよう。嫌な人に対して簡単に攻撃するなら、何の人格もない人間になる。嫌なことを何でも潰そうと思うのは、怒りの感情だけで生きるケモノだ。精神的には決して健康ではない。だからといって世の中の間違いを何でも放っておくと、エスカレートして危険な状態になる可能性がある。仲間・後輩のいけないところを指摘する義務もある。しかし、私が怒って「やめなさい」と言うと、相手も怒ってやめないだろう。私もさらに怒って、仲間との調和が壊れることになる。
そこで「私にとって、相手の生き方は簡単に無視できる。放っておくこともできる。慣れてしまうこともできる。しかし、その生き方は相手にとって良くない。教えてあげた方がいい」。このように相手に対して慈しみがある場合は、攻撃的な態度をとれる。怒りがなく、慈しみで攻撃する場合は、喧嘩にならない。面白おかしく、からかって、笑っている状態になる。相手も嫌な気分を味わうことなく、穏やかな気持ちで自らの性格を変える。
➌避ける場合
「➌避ける場合」も考えてみよう。もう付きあわないことだ。これも、怒りで喧嘩別れすると、きれいサッパリ別れたことにならない。別れても、相手と一緒にいたときの嫌な感情や怒りがこみ上げたりする。それが自分の足を引っ張ることになる。お互い合わない人と色々調整しながら付きあうと、私の精神状態も悪くなるし、相手にとっても都合が悪い。「お互い一緒に行動しない方がいいから別れましょう」と仲良く握手して離れるなら、気持ちいいし、相手と付きあう必要もない。そういう避け方は悪くない。
相手が不正をしている場合
自分に関係ある人々が不正を働いている場合は、正すために努力した方がいい。その時でも、怒ったらどうにもならない。怒ったら、間違いを正すことはできなくなる。たとえば誰かをイジメている子供を見て、蹴っ飛ばしてやめさせても、その子を正したことにはならない。優しい心で向き合おう。
本心から「この不正を直してあげたい」という気持ちがあるなら、怒らないはず。怒るのは「この連中は嫌だ」と、自分が相手とは別の存在になって対立しているからだ。本当に直してあげたければ、怒らずに、相手の味方になって何とかしてあげられる。別に直したくなければ、放っておく。どっちにしても怒る必要はない。
慈しみがあれば、智慧が湧く。私たちの問題は、すぐに怒りが出ること。怒りの反対の慈しみは、まったく出てこないことが問題なのだ。不正を見たら潰したくなってしまう。潰すべきは行為や考え方であって、その人ではない。ただし、慈しみの心で相手と向き合っても、言うことを全然聞いてくれなくて、どうにも直らない場合はある。そのときは放っておくしかないが、それも慈しみなのだ。
心優しければ大丈夫
とにかくどんな場合でも、怒ったら負け。怒ったら能力はない。気に入らない人がいてもいい。心が優しければ大丈夫。「気に入らない人も幸福でいてほしい」 という優しさが命だ。全員がお互いを気に入るということはあり得ないから、気に入らない人がいても、心の中で相手を心配する気持ちを育てよう。
相手を褒めたりおだてたり、機嫌をとって八方美人になると奴隷になってしまう。 自分の権利はなくなってしまう。「みんなと仲良くするべきだ」と思うあまり、相手にへつらって自分自身の権利を失う必要はない。相手に対して優しさがあれば、「あなたの言うことは、ここが気に入りませんよ」と堂々と言える。「そんなこと言っても、言うことは聞きませんよ」と相手の要求を断る自由が出てくる。お互いに「あなたの言うことは聞かないよ」と言えるが、仲良くする。それが本当の人間関係。支配したり支配されたり、というのは人間関係ではなくて、恐ろしい支配関係。仏教はそれと正反対。正しいのは「私は誰にも迷惑をかけない。相手も私に迷惑をかけない。常に心優しくいる」という慈しみの関係なのだ。