【ブッダの神髄を伝える】

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2021/10/08 12:32


幸福に生きることだけが、人生の目標だろうか? たとえ幸福に達することに成功しても、それはさほど刺激的な境地ではない。一般人は気づかない、興味も持たない、もっと高い目標があった方がよいだろう。目標が高くなればなるほど、実行も難しくなる。

その目標とはズバリ「人格向上」だ。世の中に生まれる人間は、成長するにつれてある程度の人格を備えるようになり、やがて「大人、社会人」などと呼ばれる。しかし、大人になるまでの成長を讃嘆する必要はない。誰だって責任感のある大人にならなくてはいけないからだ。この人格は、世間で問題を起こさずに生きられる程度に限定される。

一方、仏教が示す「人格向上」は、一般人の次元を超える境地だ。俗世間の人よりもっと優れた人格者になろうと挑戦する。これは「人間を超える道」だと理解しておくといい。人間を超越して、人格を向上させるためのメソッドが「忍耐」。「なんだ、そんなことで超越した人格者になれるの?」と疑うかもしれない。疑いが生じるのは「忍耐」の意味がよくわからないから。

世の中を見渡せば、生きることは、決して楽にスムーズに進んで行くものではないとわかる。誰もが私たちを生かしてくれるわけではない。生きることを応援してくれる条件はわずかで、命を脅かされる、命を失う条件はあふれている。この現実をよく理解して、忍耐する。

普通の人間なら、お金が儲かると喜ぶ。結婚して子供が生まれると喜ぶ。子供がすくすく成長すると喜ぶ。逆に、お金がなくなると悩み、不安になる。子供が病気になったり、悪い仲間と付きあったり、勉強をサボったりすると不安に襲われる。大地震が起こったり、洪水になったり、感染症が広がったりすると、震えて怯えて、悩み苦しむ。

この世界は予測できないもの。何が起きるかわからない。なのに、私たちは「こうあってほしい」という希望を持っている。希望は、自我の錯覚から生まれる。花が美しく咲いてほしいと希望を抱いても、その希望が叶うか否かは管轄外のこと。世界は因果法則によって流れている。この変化に合わせて自分の心が揺らぐなら、心が強くなることは絶対にない。集中力を上げることも不可能だ。人生は自ずと悩みに満ちたものになる。

仏陀が説かれた「忍耐」とは、世界の変化に合わせて心が揺らぐことなく、安穏でいる訓練。気候変動を忍耐する。感染症を忍耐する。体調の変化を耐え忍ぶ。他人の気に障る言動を耐え忍ぶ。幸福に恵まれても不幸に遭遇しても心が揺らがない。失敗しても成功しても冷静にいる。これらが忍耐することだ。

忍耐することで、世界は自分の希望どおりに動くものではないと発見する。そもそも希望をつくった自分の方に過ちがあったと発見する。世間は、自我を中心に、自我の衝動で、自我の指令で生きて、苦しみの世界を築いている。一方、忍耐する人は、自我の錯覚が薄れていく。苦しみの世界ではなく、安穏の世界で生きられるようになる。

仏陀は、途中で諦めることを禁じる。ある日、帝釈天が仏陀を訪ねて「人はどこまで精進するべきですか?」と質問した。仏陀は「結果が出るまで」と答えた。つまり「途中で諦めることは認めない」という意味だ。

人格を向上させようとするとき、仏道を歩むとき、ハードルが連続して現れる。それは当然だと冷静に受け止めること。悔しくなったり、嫌になったり、文句を言ったりしないこと。エベレストに登りたいと望むなら、標高が高すぎる、酸素が足りない、天気の変化が危険だなどと文句を並べても意味がない。どんなハードルも当然だと捉えて乗り越えるだろう。

人が人格向上の道を歩む。様々なハードルに遭遇する。文句ひとつ言わず、やる気を失わず、冷静に落ち着いてハードルを乗り越えていく。それが「忍耐」ということ。忍耐さえあれば、人格向上の道のりは解脱という山頂に達するまで問題なく進む。忍耐は、仏教の究極の修行なのだ。


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