2021/10/14 10:04
執着は、確かに、苦しみを生み出す。しかし同時に、人間の生きる原動力ではないか? 執着を捨ててしまうと、生きる力を放棄することになってしまわないか? この気持ちは、人間なら誰でも持っている正直な感情だ。「私の原動力はこんなもの」と理解していることは、何も理解せずに生きるよりよっぽど良い。
楽しく生きることが問題なのではない。執着することが問題だ。たとえ良い活動をしていても、執着が割り込むと、人生に逆風が吹く。人間だけでなく、どんな生命も、いろんなものに執着して生きている。しかし皆、束縛されて自由を失っていることに気づかない。何が問題かを理解していない。
動物は、縄張りを作って、その中で活動する。人間も、いろんなことに執着した時点で、小さな世界を作って、その中に閉じ込められる。執着は、自由闊達な精神を失わせ、生きる世界を狭くする。逆に執着を捨てると、生きる原動力がなくなるどころか、心は自由になり、世界のスケールが広がる。論理的に見ると、執着とは足枷であり、何かに強く縛りつける働きだ。執着がなければ、心はすごく自由になる。
執着があるから楽しい?
若者が明るく生きているのは、執着があるからではない。興味の赴くまま、いろんなことをやって、面白かったらやるし、面白くなくなったらやめて、他のことをやる。だから明るく生きられる。執着があると、それができない。失恋したら、執着の強い人は、痛みに耐えられず泣き叫ぶ。執着の少ない人は、すぐに次の彼氏彼女に挑戦するだろう。
私たちは、執着のおかげで楽しく生きてきたと勘違いしている。そうではなく、日々いろんなことに挑戦するから、楽しみが生まれる。執着がある人に幅広い挑戦はできない。限られた一つか二つの目的の中で、ぐるぐる回っているだけ。新しいことに挑戦できないので、「私はこれをやっていると落ち着く、楽しい」と錯覚する。本当は、執着は楽しくない。心は暗くなる。
世の中は、執着を原動力にして生きる人が多い?
世の中の99.9%の人間は、執着を生きる原動力にしている。だからすごく暗い。しかし、「挑戦して達成した喜び」を原動力に生きている人は、完璧に明るい。その人の楽しみを奪うことは誰にもできない。たとえ家が火事になっても、明るさは消えない。
執着しようがしまいが、私たちの人生は流れているから、執着は本来成り立たない。執着とは止まること。真実は、何ごとも止まることなどできない。止まれないのに止まろうとするから、苦しい。車に乗って、窓から手を出して、何かを必死でギュッと握り続ける。楽しいだろうか? 楽しいどころか死んでしまうだろう。執着も同じで、すごく苦しくて危ない。
日本では、小さい子供にも、ああなれこうなれと言って苦しめている。それでも人生を楽しもうとしている子供は、頭がいいし、勇気がある。幼い頃は、何でも親がやってくれる。眠くなったら、どこででも寝る。心配なく、楽しく生活していた。ところが大きくなるに連れて、自分でやるように要求される。当然、なかなかうまくいかない。それで悔しくなる。希望や、期待や、将来性などが現れる。期待や希望が現れて、失敗すると、またそこから期待や希望をつくる。「失敗しなければ良かったのに」と思った時点で妄想だ。現実から離れている。「今」ではなく、将来のことを考えるのは妄想に過ぎない。そんな妄想なら、いくらでも考えられる。
現実には、生きることに希望などない。向かうべきゴールもなく、ただ生きて、ただ死んでいく。それだけの話。本来は2,3歳の時から教えてあげるべきだ。「がんばれば、何でもできるよ」という嘘を教えても、何でもできるはずがない。そういう屁理屈を聞いて夢をつくるほど、苦しみが増える。元気は増えない。夢があると元気だというのはとんでもない話で、将来を悶々と妄想し、過去をどこまでも悩むことになる。そんなことばかりしているから、無知な人は、伐られた竹のように枯れてゆく。
現実主義者になろう
仏陀が説かれた生き方をすれば、徐々に現実主義に達する。ところが、仏陀の教えを実践する人も、「自分の思考・感情・好き嫌い」などの高温の油で揚げてから実践するので、本物にならない。健康になるはずのものが、脂肪が溜った不健康なものになってしまう。釈尊が説かれた道を真っすぐ歩む人は、確実に現実主義になり、幸福になる。論理的・具体的で有効な思考以外、何の役にも立たない。生きるエネルギーを浪費する妄想を制御することで、現実主義に達する。妄想を停止するヴィパッサナー実践が唯一の解になる。
この一回きりの瞬間を、無執着の気持ちで生きる。これが現実主義で、聖者・悟った人の生き方。私たちも、聖者の現実主義を真似してはどうだろうか。「無駄なことはしない。有効に生きる。感情に負けない。慈しみを衝動にする。自分にも他人にも役に立つ生き方をする。罪は、どんな小さなものでも犯さないぞ」と戒めて生きるのはどうだろう? サティ(sati、気づき)の実践によって、見事な現実主義になる。初めは真似にすぎないが、やがて真似は本物になるのだ。