2021/10/22 12:25
人は、ゼロで生まれて、学びながら、一つひとつできるようになっていく。その過程に喜びを感じる生き物だ。生きるとは、学びの積み重ね。そこで大事になってくるのが、学ぶ側のスタンス。
一言でまとめるなら、「とにかく、ひたすら受け入れる」。これ以外ない。教え方がどうだとか、教える人の態度が問題だとか、そんな理屈をこねる余地などまったく存在しない。教える立場の人から褒められれば、当然嬉しいだろう。しかし、学んでいるときは、けなされたって、叱られたって嬉しいもの。なぜなら、そこには「何かしらの教え」が必ず含まれていて、自らの学び・成長に繋がるから。学びたいという気持ちがある人にとって、こんな嬉しいことはない。
学問でも技術でも、何かを「できる人」が、「できない人」に教える。もしあなたが「できない人」で、教えていただく立場(学ぶ立場)なら、問答無用で受け入れるしかない。学ぶとは、本当に厳しく、そして楽しいもの。
先生に「これはダメだ」と言われたら、「ダメですか。じゃあ直します」というのが正しい生き方。自分で直せなければ、「わかりませんから、教えてください。どういうふうにやればいいですか」と聞けばいい。教えるのが先生の義務だから。そういう生き方なら、楽に生きていける。
それなのに世間を見ると、先生や先輩に怒られたり、けなされたりすると、「何で、そんなことを言うんだ」「どうして、そんな言い方をするんだ」「もっとマシな言い方があるだろう」と腹を立てる人がいる。「先生・先輩に怒られた」と落ち込む人がいる。みんな混乱してばかりで、猫が毛糸玉で遊ぶように、やればやるほど混乱はひどくなるばかり。
何も持たずにゼロで生まれてきて、一つひとつ学んでいく存在なのに、教えてくれる人のことをとやかく言うなんて、それこそおかしな話だ。教え方に文句を言ったり、指導方法に注文をつける・指図するなんて選択肢は、学ぶ側にはない。それが学びの原点になる。もちろん、教える側にも「教える資格」は必要で、実はもっと大変なのだが、それはまた別の話。
人生は学習の連続であって、学ぶことでしか環境に適応していくことはできない。学びとは、生きていくために必要不可欠の要素。だからこそ「学ぶ」という行為の本当の意味、厳しさ、取るべき態度を理解したほうがいい。褒められて嬉しいのは当たり前。しかし、けなされても嬉しいというのが、学ぶ者の基本だ。そうでなければ、学ぶ資格はない。学ぶ資格がなければ、生きていく資格も失ってしまうのだ。